■波間に見たことのないスポーツに興じる若者が。「これは何?」「サーフィンだよ」
笈川さんは50年、東京の下町に生まれた。父は築地でマグロ問屋を営み、母は父が開いた寿司店の女将をしていた。笈川さんは5歳から日本舞踊を習っていた。
「私、おてんばだったから、父が少しでもおしとやかにしようと通わせたんです。でも、私はやりたいことしかやらないマイペースな子。お仕着せの日本舞踊が、だんだんいやになって。それでも、一応は踊れていたから、両親は将来、私を踊りの先生にさせたがって。ま、実際そうなっちゃったけどね(笑)」
地元の小学校を出て、中学からは都心にある私立校に通った。
「そのころから、勉強が忙しいと言い訳して、踊りのお稽古を休むように。でも、父がやめさせてくれなかった。『始めたことは結果が出るまでやれ』と。だから、サボりながらしばらくは続けましたけど。結局は行かなくなりましたね」
すぐに、強烈にやりたいことが見つかった。それは中学卒業前の春。友人と遊びに行った平塚で海を眺めていると、波間に見たこともないスポーツに興じる若者たちがいた。やがて、海から上がってきた彼らに、好奇心を抑えきれずに尋ねた。「これは何?」。すると、1人の少年が教えてくれた。
「これはサーフィンっていうんだ。一緒にやろうよ、楽しいから」
15歳、運命の出合いだった。
ほどなくして、笈川さんは平塚の海に通い始める。小学生時代、水泳大会に出場するなど、泳ぎには自信があった。それなのに、初めはまるで歯が立たなかった。
「沖に出ることすらできないの。板の上に腹ばいになってパドリング、手で海面をかいて進むんですけど。そのうち波がザブンと来てひっくり返され戻される。当時は足首と板をつなぐリーシュというひももなかったから、流されちゃった板を泳いで取りに行って。またパドリングしてザブンと波にやられて……。ずっと、その繰り返し」
沖に出るのに数カ月、ボードの上に立てるまでには、1年近くを要した。
「最初に立てたときは、うれしかったはず。でも、覚えてないの。なんせ50年以上前だから(苦笑)」
それでも、波に乗る高揚感は何事にも代え難かった。毎週末、湘南に通い、どんどんのめり込んだ。仲間も増えた。ゴッデスの鈴木さんともこのころめぐり合い、自分用の板も作ってもらった。
一方、学業はエスカレーター式で系列の高校、さらに短大に進学。
「18歳ですぐ、車の免許をとって。短大では友達に授業の代返を頼んで、平日も車で海に行って、ガンガン波乗りしてました」
海の帰りに元町で買い物。夜は赤坂のディスコに繰り出し、ボウリング場でアルバイトも。時は60年代末。笈川さんは時代の先端を突き進むように、青春を謳歌した。
厳格な父は波乗り、踊りに明け暮れる娘に、意外にも寛容だった。ただ一点だけ「何をして遊んでもいい、その経験を必ず生かせ」と。そして、やはりここでも「始めたことは結果を出せ」と付け加えた。
「私が波乗りを始めたころは、女子は数えるほどしか。だから、大会に出ても、立てるだけで入賞(笑)。ところが年々、女子も増えてきて。私、負けず嫌いだから『昨日今日、始めたコに負けられない』って目の色変えて取り組み始めて」
同時期、サーフィンはファッションや文化の1つとして、若者の間で流行し始める。
「『丸井』で板を売りだしたあたりからかな。私たちは『ハイウェイサーファー』なんて呼んでたけど。格好だけの、にわかサーファーがどんどん海に増え始めた」
急増する初心者。なかにはサーファー同士のルールを守らない、勝手気ままな者も少なくなかった。
「危なくてしょうがないから『邪魔だー!』って怒鳴って板をひっくり返してやったこともあった」
やがて笈川さんは、比較的人の少ない千葉方面に通うように。
「御宿の少し南に『シンガ』と呼んでたポイントがあって。そこは、上級者向きのいい波が立つんです。でも、海底は岩がゴロゴロ、ひっくり返って波に巻かれたら大けがするような場所」
笈川さんはその海で、おなかにボードの先端が突き刺さったり、左目の上を3針縫うけがを負いながら、猛練習に励む。果たして73年、全日本選手権で準優勝に輝いた。
「優勝者は湘南に住んでた女のコ。練習量が違う。彼女は毎日、海に入ってた。週に数回、東京から通っていた私には2位が限界でした」
大会後、笈川さんは鈴木さんから、こう持ちかけられたという。
「日本も、これからはプロサーファーが誕生する。笈川さんも湘南に住んで、プロにならないか?」
このとき、23歳。笈川さんは人生の大きな岐路に立っていた。