■プロか結婚か。岐路に立たされ、結婚を選んだ。
学生時代に出会ったサーフィンに夢中になった笈川さん。暇さえあれば海に通い、練習に明け暮れ、73年、全日本選手権で準優勝に輝いた。
「優勝者は湘南に住んでた女のコ。練習量が違う。彼女は毎日、海に入ってた。週に数回、東京から通っていた私には2位が限界でした」
大会後、笈川さんは鈴木さんから、こう持ちかけられたという。
「日本も、これからはプロサーファーが誕生する。笈川さんも湘南に住んで、プロにならないか?」
このとき、23歳。笈川さんは人生の大きな岐路に立っていた。
「それまでも、沖に流され戻れなくなったり、死にそうな目に何度もあってたし。自分があと何年できるか、考えちゃって。ちょうどそのころ、のちの夫と付き合い始めてた。それで、波乗りじゃなく結婚を選んだの。二度と海には戻らないという覚悟でね」
友人の結婚式の二次会で出会った彼は同い年。笈川さん同様、実家は寿司店を営む板前だった。「堅い職業の男性に嫁がせたい」と考えていた両親、とくに母は結婚に大反対だった。
「寿司屋の苦労は知ってたから、私も本当はサラリーマンと結婚するつもりだった。でも、それまで恋愛らしい恋愛をしてこなかったから、だまされちゃったのね(笑)」
25歳で結婚。ところが、その1年前から、体に異変が生じ始める。
「急に、たびたびぎっくり腰になるようになって。病院で診てもらったら、生まれつき重度の脊柱側彎症だったことがわかったんです」
それまでは、ゆがんだ体を海で鍛えた筋肉が支えてくれていた。サーフィンをやめ陸に上がったことで突如、病いが表面化したのだ。
「医者からは『背中を開いて背骨をネジやフック、棒で真っすぐに矯正する手術がある』と言われました。でも、半年間は寝たきりと」
結婚式が目前だった笈川さんは手術を回避。別の治療法を探した。
「ちょうどカイロプラクティックが日本に入ってきて。『これだ』と思い通ったんです。でも、カイロの先生からは『1~2年じゃ治らないよ』と念を押されました」
激痛を伴う治療を毎週のように続けたが、症状はなかなか改善しなかった。それでも、痛みをごまかしながら結婚生活を送り、2人の子宝にも恵まれた。
「でもね、体が痛くて赤ちゃんを抱くこともできない。ひどいときは朝、寝床から自力で起き上がることもできないありさまでした」
もともと職人かたぎの夫。自分の稼ぎの多くが妻の治療代に消えていくことにストレスを感じていたのか、最低限の生活費だけを置くと、だんだんと家に寄りつかなくなっていった。笈川さんは痛みを押して1人、子育てに奮闘したが、生活は長い間、苦しかった。
「実家を頼ろうともしたけれど。『お前が好きで選んだ人生、貧乏長屋の女将として踏ん張りな』と父に言われてしまって」
当時の住まいは6畳2間の風呂なしアパート。何不自由ない子供時代を過ごした笈川さんが、銭湯代にも窮するようになっていた。
「お恥ずかしい話ですが、お湯を張った洗濯機を湯船に見立て、子供たちを入れたこともありました」
自分は食べたつもりで食事を抜き、そのぶん、子供に少しでも食べさせる、そんな日々が続いた。
「長女のこと、本当は幼稚園の年少さんから入れてあげたかったんです。でも、私が送り迎えできる体じゃなかったから諦めて。それで彼女が5歳のとき、何か習い事をさせてあげようと。すると本人、『踊りを習いたい』と言うので、私が幼いころに通った先生のところに、頭を下げに行ったんです。
すると先生は開口一番『どうしちゃったの!?』って。あまりに痩せ細った私を見て『このコ、死ぬんじゃないか』と思ったそうです」
ふびんに思った先生は「私を手伝わない?」と声をかけてくれた。
「それで私、久しぶりに踊るようになって。でも助かりました。先生の手伝いをすることで娘の月謝を免除してもらえたうえ、少額でしたけど毎月、アルバイト代も。生活費の足しにできましたから」
ふたたび踊り始めると、笈川さんの体調は少しずつ上向いていった。稽古で筋力がアップしたことで腰痛が癒え、いつしか、自力で寝起きもできるようになっていた。