■貸本屋で出合った手塚治虫の『漫画大学』がバイブル。手塚の推薦でマンガ誌デビュー
1939(昭和14)年、水野さんは、山口県で生まれた。両親は旧満州で結婚したが、戦況の悪化で、妊娠中の母だけが帰国。故郷の下関市で水野さんを出産している。
「満州の高官をしていたという父の写真1葉だけが家に残っていましたが、戦後の混乱で父は帰らず、私には父の記憶はありません」
仕事で不在がちな母に代わって育ててくれたのは、祖母と、水野さんより12歳年上の叔父だった。
マンガとの出合いは、小学校2年のころ。銭湯の真向かいに貸本屋があり、学校から帰ったらすぐ、カバンを放り出してマンガを借りて帰るのが日課になった。
「小学校3年のときに貸本屋で借りた手塚治虫先生の『漫画大学』は衝撃でした。初心者が使いやすい画材など、マンガの描き方が懇切丁寧に説明されていたのです。掲載されていた5~6編の中編マンガもミステリ、西部劇、メルヘン、SFなど、新鮮なテーマのものばかり。悪人も単なる悪人ではなく、その人の背景や人生が深く描かれ、考えさせるものでした」
水野さんは、一気にマンガにのめりこむ。小学校5~6年ごろには、『漫画大学』をバイブルに、コマ割りをし、ペンを使って、本格的なマンガを描くようになっていた。
「家族みんな絵心があったんです。叔父は美術部でしたし、母も自治会に頼まれて、非常に綿密な紙芝居を作っていた記憶があります」
その母も、中学2年生のときに早世してしまい、水野さんはますますマンガに没頭。尊敬する手塚が審査員を務めていた『漫画少年』に投稿を始めた。
ほどなく14歳で描いた『赤い子馬』が佳作に選出される。
「その作品は雑誌には掲載されませんでしたが、手塚先生が気に入って、家に持ち帰ってくださっていたんです」
運命の歯車が回り始めていた。
『少女クラブ』(講談社)の編集長・丸山昭氏が、打ち合わせで手塚の仕事場を訪ねたときのこと。 仕事場の天袋に積まれた手塚の漫画原稿のなかに紛れていた『赤い子馬』に目を留めた。
「これは誰の作品ですか?」
丸山氏が尋ねると、
「この子、なかなか描けているから、マルさん、育ててみたら」
と、手塚が推してくれたのだ。
ほどなく丸山氏から、下関の水野さんに連絡が入った。
「もっと、あなたの作品を見てみたいから、送ってほしい」
すぐさま送った『赤っ毛子馬』が『少女クラブ』でのデビュー作。16ページの西部劇だ。
中学卒業後、水野さんは下関の漁網工場に就職し、魚を取る網を作り、補修する仕事についていた。昼は、40kgもの大網を抱えて階段を上り下りする重労働をこなし、帰宅後、夜半からマンガを描く生活に疲れ果て、マンガ1本に絞ることを決断。57年には初の連載『銀の花びら』が始まり、このころ丸山氏から思いがけない依頼が届く。
「赤塚不二夫、石ノ森章太郎と合作で、少女マンガを描きませんか」
水野さんは迷わず引き受けた。
「いまでこそ少女マンガの描き手は女性という認識ですが、当時は男性が描いていたんです」
女性の手による本格的な少女マンガが嘱望されていた。