盟友・寂聴さんに寄せ…作家・澤地久枝「死ぬ準備ができてない」
画像を見る 要介護4から回復し、現在は階段の上り下りも

 

■故・寂聴さんは60年以上前からの“盟友”

 

11月9日、突然の報が日本中を駆け巡った。

 

《瀬戸内寂聴さん逝去、享年99》

 

澤地さんはその悲報を、新聞社からの電話で知らされた。

 

「その日は落ち着く暇もなく電話が鳴り続けるものだから、留守番電話にして、もう出ませんでした」

 

同じ女性の作家として長く活躍してきた寂聴さんと澤地さん。ふたりの出会いは60年以上前で、寂聴さんは当時、新進の作家であり、当時中央公論社に勤めていた澤地さんは『婦人公論』の担当編集者という間柄だった。

 

8歳年上の“盟友”の大往生によせて、澤地さんが口を開く。

 

「それは見事な人生だったと思う。わが子を置いて家を出て、夫と別れ、男性たち(作家・小田仁二郎さんや井上光晴さんら)との出会いと別れがあった。存分に愛し、ダメならサッと別れた。でも、男性たちからも恨まれてないと思うんです。そして後に娘さんとも和解している」

 

澤地さんが担当していた時期は、寂聴さんが「瀬戸内晴美」として執筆していた50年代後半のころ。女性としての台頭“ガラスの天井”に阻まれ「子宮作家」などとやゆされていた。

 

「ほとんどの文芸誌から依頼がなかったその時期、私は『婦人公論』で寂聴さんに執筆をお願いしていました。練馬の畑の真ん中にあるご自宅に原稿を取りに行くと、寂聴さんはまだ、たっぷりの黒髪を結われていました」

 

後の72年、澤地さんのデビュー作『妻たちの二・二六事件』の出版パーティでは、寂聴さんが発起人の一人になった。その後も91年の湾岸戦争や、12年の原発再稼働への抗議行動などで幾たびとなく“共闘”してきたふたりだった……。

 

「でも、私の人生はあんなに思い切りよくありません。くらべようもなく、大きな存在ですよ、寂聴さんは。読者、いや世の多くの人にとって、寂聴さんが生きていることが、支えだったと思うんです」

 

澤地さんは視線を漂わせるように、故人に思いをはせた。

 

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