“僕は元女子高生でパパ”女性パートナーとゲイ友人と3人で育児
画像を見る ロールモデルがいなかったのが辛かった

 

■パートナーには交際5年目にプロポーズ。反対していた彼女の両親も認めてくれた

 

3歳年下の彼女は、元スキー選手だ。引退後、ロンドンに留学して舞台衣装のデザインを学び、帰国後、実家のピザ店の手伝いをしているころに知り合った。

 

彼女の父親は若いころから杉山さんの実家が営むとんかつ店「すずや」の常連で、彼女も彼女の家族も、杉山さんのトランスジェンダーを知っていた。著書が出たときなど、「頑張りなさい」と応援してくれたほどだ。

 

「たまたま彼女と舞台を見に行くことになって、そのときすっごくいいコだなと思って。僕のほうから猛アタックしたんです」

 

彼女は長く付き合った彼と別れたばかりで、楽しければいいかなという軽い感じで、交際が始まった。ところがーー。

 

「お義母さんは、デザイナー。ファッション業界ってゲイの方が多いから、大丈夫っしょぐらいに思っていたんですけど……。交際となると全然ダメでしたね」

 

「うちの子は普通なの。あなたの世界に引きずり込まないで」

 

義母の言葉は心に刺さったが、その心情はよくわかった。彼女の両親にも時間が必要だったのだ。

 

30歳の12月、実家を出た杉山さんは新宿3丁目で一人暮らしを始めた。やがて彼女も一緒に暮らし始める。彼女のご両親には内緒のままで……。

 

「これからは、自分にしかできないことをやりたい」

 

と、12年3月、勤めていた外食系企業を退職。

 

ほどなく生きづらさを抱えた人が思いを語る番組『Our Voice』(NHK Eテレ)の司会の仕事が舞い込んだ。それからは講演会をこなし、バーで収入を得ながら、杉山さんはLGBTQ+(性的少数者の総称)の人々の居場所作りや啓発活動に邁進していった。

 

13年5月、LGBTQ+の子どもの居場所を作ろうと、NPO法人「ハートをつなごう学校」を設立。14年には日本最大のLGBTQ+啓発イベント「東京レインボープライド」の共同代表に就任する。そんな杉山さんの活動を、彼女の両親は遠くから見つめていた。15年、渋谷区の「同性パートナーシップ制度」のニュースが大々的に報道されたときは、お義母さんも見ていてくれたようだ。

 

交際5年目の記念日に、彼女にプロポーズし、6年目には彼女の両親と和解。義父は、

 

「俺は俺、お母さんはお母さん。2人は2人ってことだ」

 

義母もこう言ってくれた。

 

「渋谷区のこと、頑張ってるのね」

 

とはいえ、婚姻届を出すためには杉山さんの戸籍の性を男性に変更しなければならない。そのためには乳房だけでなく、生殖機能も摘出する必要がある。それが現行の「性同一性障害特例法」だ。

 

「トランスジェンダーの性別違和って個人差が大きくて。手術しなければ生きていけない人もいれば、手術はイヤだけれど、結婚できるならと、手術を選択する人もいます。でも僕は、性別適合手術を強制するいまの制度の形を変えたほうがいいと思っています」

 

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