■3.11被災者の証言を通じて知った「ふるさと」の意
仮設住宅を何度も訪れるようになった一枝さんが耳にしたのは、家族やふるさとを壊された福島の人たちの嘆きと怒りだった。
「震災の前まで、福島では何世帯も一緒に住んでいる大家族が多かった。でも原発事故が起きて、若い世帯は避難してしまってね。仮設に残っているのは高齢の方が多かったんです。最初のうちは、『家に帰って家族みんなで暮らしたい』とおっしゃっていた方が、『家族みんなで暮らしたいなんて間違いだった』と言いだした。でも、何度も通ってお話を聞いていると、言葉どおりの意味ではないと気づいたの。娘や孫と離れて暮らすうちに、それぞれの場所での生活が日常になって、いまさら同居しても居心地が悪いだろうとか。そういう複雑な事情が、その言葉の裏にあることがわかってきたんです」
ふるさととは何か、を考えさせられるこんな方もいた。
「仮設住宅にいる間からずっと『帰りたい、帰りたい』とおっしゃっていたおじいちゃんがいて。避難指示が解除されたあと、すぐリフォームした家に戻られたの。さぞ喜んでいるだろうと思って訪ねたら、『こっちの家も、あっちの家も人が戻らない。寂しくてしょうがないから、昼時は窓際に座って、通り沿いの食堂に来るお客の姿を眺めてるんだ』って……」
テレビのニュースでは伝えられない現実がそこにあった。
「こうして福島の人々の話を聞かせてもらうなかで、ふるさとがどういうものかストンと腹に落ちた。土地じゃない、家じゃない、お祭りじゃない、そういうものをぜんぶ含めたそこでの暮らしがふるさとなんだ、って」
原発事故でふるさとを追われた人たちと、戦争という理不尽な力で流浪を強いられた自分や両親の姿を重ね合わせることもあった。
「浪江町(福島県双葉郡)の津島という地域は、千年も前からこの地で暮らしてきた人たちと、敗戦後に満州から引き揚げて身ひとつで入植した人たちが、一緒に山野を開拓してきた場所なんです。道具もないなか木を倒して抜根して。子どもたちも学校を休んで手伝っていたと聞きました」
原発事故前まで津島には、自然の恵みとともに生きる豊かな暮らしがあった。
「だから住民たちが裁判で、『満蒙開拓で国に裏切られ、帰ってきて祖父母が苦労して切り開いてきた土地を、また国や東電に奪われた。ふるさとを元に戻せ!』と、訴えているのを聞くと胸が痛い。戦争も原発事故も、国策で進められ、人生を翻弄して破壊するという点で同じなんです」
時の流れは残酷だ。被災地に通うようになって11年、福島でできた多くの友人たちを見送った。
「南相馬で高齢者のシェアハウスを造ろうとしていた藤島昌治さん、飯舘村の長泥地区で石材業を営んでいた杉下初男さん、同じく飯舘村の元酪農家、長谷川健一さん……。みんな私と同世代か若いくらいです」
一枝さんは以前から、「人は病気で死ぬのではない、寿命で死ぬのだ」と考えてきたが、福島の友人たちの死はそう思えない。
「放射能のせいか故郷をなくした心労かわからないけど、“断ち切られた命”だと思えてしまう。原発事故さえなかったら、と」