高田馬場名物立ち食いそば屋が閉店に 女性店主供する天玉そばの味染みて
画像を見る 中1の彩華さん、小5から店の看板娘としてお客にもかわいがられた

 

■結婚相手は働かず、生活費は自分にかかって。父の提案で立ち食いそばを「やるしかない!」

 

「私の母は岩手の生まれで、父は台湾から12歳で来日してのち、薬問屋で働いていました。結婚した2人は、今から75年前の47年に高田馬場で幸寿司を始めたんです」

 

49年1月13日に彩華さんが、続いて弟2人が生まれると、この小さな店舗の上で6人が身を寄せ合って暮らしていたという。

 

「たった3坪の店の上が住まいでした。2階に両親と私たち姉弟で、3階が店を手伝っていた叔母の部屋。風呂なんて当然ありません。近くの銭湯で、まだ入浴料が10円だったと記憶してます」

 

彩華さんは、すぐに店の看板娘となる。

 

「お客さんと話すのが、子供のころから大好きでした。ランドセルしょって、店から小学校にも通いました。お正月には、日本髪に着物でお茶を運んだものでした.。もうこのころから、長女の私は、両親が繁盛させているこの店を、ずっと守り続けていかなければならないと考えていました」

 

高校を卒業後、店を手伝いながら、20歳の若さで結婚。

 

「ダンナとは行きつけの喫茶店が一緒でした。でも、結婚してすぐに彼はマージャンなど賭け事が好きで、消費者金融にも借金があることがわかって。それなのに釣りに凝ると、幻の魚・イトウを探して北海道へ行ったきり1カ月も音信不通というありさまで、生活の負担は全部私にかかっていました」

 

彩華さんは、女の子3人、男の子1人の子供4人を抱えて、父の寿司屋を手伝いながら、なんとか生計を立てていたが、あるときその父が言った。

 

「うちの前を、朝も昼も学生やサラリーマンなど大勢の人が通り過ぎていくだろう。うちの寿司屋は昼間は場所が空いているんだから、立ち食いそばでもやってみるというのはどうだい」

 

東京オリンピック後、都内の駅前を中心に、あちこちに立ち食いそば屋が出現し始めていた。

 

彩華さんは、すぐに神田の立ち食いそば屋へ修業に出た。背中には、まだ生まれたばかりの赤ん坊を背負ってねぎを刻み、どんぶりを洗い続ける。

 

流れる汗を拭いながら、自分に言い聞かせていた。

 

「この子たちは、私が立ち食いそば屋をして、立派に育ててみせる。絶対に負けない」

 

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