■夫の胃がんの治療費などで貯金が残高700円に。「立ち食いそばで頑張るぞ」が店主の矜持
負けず嫌いな彩華さんは、味にも徹底してこだわった。
「天ぷらは横浜の仕出屋さんから仕入れ、麺も大手製麺所に特注して。つゆは宗田節とかつお節の厚削りでだしを取った自家製で、調味料の砂糖や醬油もザラメとヤマキと決めてました。開店後も四国の手打ちうどんを視察したり、評判の高い他店を食べ歩くなかで、改めて立ち食いそばは、早い、うまい、安いが鉄則だとわかるんです」
やがて、昼は娘のそば屋、夜は父親の寿司屋という家族の“二毛作”経営がマスコミにも注目され、ますますの人気店に。
「ピークのころは、1日800人のお客さんも。うちは8人でいっぱいになる狭さだから、いつも店の前に行列ができている状態でした。
でも、どんなに大勢の人に来てもらっても、私の心にゆとりはありませんでした。ダンナは相変わらず働かなかったので、私はもうけよりも、とにかく子供を食べさせることだけで精いっぱいでした」
その後、33歳で離婚して、2年のちに現在のご主人と出会う。
「天ぷら屋の職人でした。配達に来たときに、おいしいつゆの作り方を聞いたら、それは丁寧に教えてくれたの。そのやさしさは今も変わりません」
やがて、新たに子供が2人増えて、6人の子の母親となる。
「朝は5時過ぎには店に入りますから、正直言って、子供は保育園のお世話になりっ放し。当時、近くの無認可保育園の園長先生から『まだ生後2カ月のしわしわの赤ちゃんを預けていったのは草野さんくらい』なんて言われたことも。
とにかく、6人の子供を食べさせるのに必死で、入学式と卒業式はなんとか出たけど、運動会や学芸会などの行事には行ったことはなかった。子供たちには、本当にすまなかったと今でも思ってます」
彩華さんの苦難は続いた。
「夫が42歳で胃がんで手術したときには、入院費などで貯金残高が700円になったことも。そのときも、『また明日から立ち食いそばで頑張るぞ』と自分に言い聞かせて、踏ん張りました」
一転、80年代半ばのバブルのころには、駅前の好立地に目をつけた業者から土地売買の誘いが。
「けっこう強引だったり、とんでもない金額を積まれたことも。でも、私は、父の教えがありましたから。お金はたくさん持っても使えば終わり。しかし、店はどんだけ使い倒しても店として残る。きちんと商売すれば、ずっとお客さんを呼んでくれるものなんです。
まあ、うちは1杯何百円の商売ですから、バブルの恩恵は、ほとんどないも同然でしたが」
それ以上に、90年前後にバブルが弾けたときに、地道な商いの強さが立証された。
「バブルの最中、周辺に新たにオープンしていたおしゃれなお店が、やっと顔見知りになったと思ったら、バブル崩壊後には途端に姿を消したり。同業者の立ち食いそば屋もきのこのようにニョキニョキ出てきたと思ったら、バブル後になくなるのも本当に早かった」