40年、大志を抱き上京を果たす。向かうは一番人気、廣澤虎造が所属していた「浪花家興行社」。
「あのころ、浪花節の本には浪曲師の事務所や家の住所まで出てたから。それでまず、事務所を訪ねたら『先生はいないよ』。次に虎造先生の家に押しかけた。だけど『女の弟子はとらない』って門前払い。途方に暮れて、最初の事務所に戻って頭下げたんだ。『女の先生をお世話してもらえませんか』って」
紹介されたのが当時「天才少女」ともてはやされていた浪曲師・鈴木照子(89年没、享年64)だった。
「照子先生は私より3つ下。私が17歳だったから、先生は14歳。男の弟子が2人いて、たまたま女の弟子を探してたところだった。それで入門を許されたんです」
翌年には見事、浪曲師として初舞台を踏む。場所は三ノ輪にあった寄席「三友亭」。師匠につけてもらった名は「鈴木照千代」だった。
「多少は緊張したけど、図々しいほうだから(笑)。10人ぐらいっきゃ入らない小さな寄席だしね」
人気者の師匠と同じ舞台に前座で立ったときには、あまりの客の多さに驚き、浪曲の文句を忘れてしまう失敗もした。
「頭がボーっとしちゃって。三味線に急かされても、文句が出てこない。それでつい、『あれ、忘れちゃった』って言ったら、お客さんがワーッと笑ったね(笑)」
故郷に錦を飾ることもできた。
「初舞台の半年後。スターだった浪花亭綾太郎先生と、うちの先生が二枚看板の興行が笠間であって、私が前座で出たわけ。『照千代は笠間出身』と宣伝してくれてたんだね、田舎からもずいぶん人が来てくれて。お客さんから『照千代をもう1回出せ』と声が掛かった。それで私、トリの綾太郎先生の後に改めて舞台に。浪曲師として、いちばんの思い出だ」
浪曲師として順風なスタートを切ったはずだった。ところが。
「私は声が硬くて、ゴロ(こぶし)が回らなかった。それで、先生のお母さんから『その声じゃ金にならない、浪曲師は諦めて三味線弾きになれ』って言われちゃってね」
嫌なら田舎に帰りな、と畳み掛けられ、泣く泣く転向を決意した。
「ショックでしたよ。でも、金にならないって言われちゃったらしょうがないからね」
いっぽう、私生活では大いにモテた。師匠のもとにいた男性の弟子2人から、言い寄られたのだ。
「1人は日記に毎日、びっしり私の様子を書き込んでた。最後に必ず『我が愛しき、りよさま(祐子さんの本名)』とまで。先生がたまたま見つけて『お前は幸せだね』って笑いながら教えてくれてね」
ストーカー的気質の兄弟子だったようだ。しかし、もう1人は、さらに熱烈だった。
「休みに浅草の観音様に誘われて。そこで言われたんだ。『俺と一緒になってくれ。無理ならお前を殺して俺も死ぬ』って。そんときばかりは、ゾッとしたよ。『なんで私は、こんなのにばっかり好かれるんだろ?』って悲しくもなった」
しかし、祐子さん。この過激な愛情表現に根負けしてしまう。
「だって、殺されたくないし、死なれちゃ困るから」
こうして、終戦間近の45年春、祐子さんは22歳で最初の結婚をした。お相手は16歳も上だった。