■学生時代はずっと戦争と共に。看護婦養成所で引き揚げてきた元日本兵を看護
「満州事変の年に生まれて、小1で父が日中戦争で召集され、14歳で終戦して、翌年に看護学校を卒業。だから、私の学生時代は、ずっと戦争と共にあったんです」
1931年(昭和6年)4月18日、京都は丹後の農村に生まれた細井さん。両親と兄、祖父母との生活だったが、大黒柱の父親は出征しており、生活は苦しかった。
「本も勉強も好きでしたが、それよりも田畑や牛飼いの手伝いが先やった。放課後は、新聞配達もして家計を支えました」
「看護師になるとは思ってもいなかった。担任の先生は師範学校への進学を勧めてくれましたが、帰還していた父が『女は早く手に職をつけろ』と、看護師学校を決めてきたんです」
養成所のあった舞鶴は、日本有数の旧ソ連などからの引揚げ港だった。
「シベリアの抑留生活で両手をなくした元兵隊さんは、心身共にクタクタに疲れ切っていて、この人は帰郷後にどんな生活をするんやろう、と思ったり。一方、相変わらず軍服のまま威張り散らす人もいて、私は戦争というものが根っから嫌いになりました」
17歳で養成所を出ると、そのまま舞鶴病院の防疫班などに勤務。結婚は19歳で、2年後には長男が生まれた。
しかし、船員だった夫は、新婚当初から、ほとんど家庭を顧みなかったという。
「舞鶴病院のあとの丹後中央病院のころは、准看護学校で教務の仕事に就いて自立もでき、夜勤もなかったので、息子が小2のとき離婚しました」
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