■“伝説のはあちゃん”は親戚の集まりでいつも話題にのぼっていた
長尾さんが、やはり文学好きの両親のもとに徳島県で生まれたのは’56年のこと。寂聴さんとは34歳の年の差となるが、物心ついたとき、すでに気になる存在だった。
「親戚が集まると、いつも話題になっていました。“あの晴美は”、と。まだ子供でしたから、自分が生まれる前の駆け落ち騒動の意味などわかりません。繰り返し大人たちが口にする名前の記憶が鮮烈で、私にとっては長い間、“伝説のはあちゃん”だったんです」
はあちゃんこと寂聴さんが20歳で女学校の教師と結婚したものの、夫の教え子だった涼太と不倫して4歳の娘を置いて家を出たのが、
’48年。この騒動直後、突然、彼女が親戚の恭子さんの家を訪ねたときのことも、長尾さんの著書に記されている。
〈恭子の母が、
「生きとって、よかった」
と涙ぐんだ。
「どこにおるんや」
と恭子の父。
「京都。女子大の友達んとこに居候しとるん」
いつもの早口ではなく、下を向いてぼそっと言う。
「日のあるうちに、よう徳島の町を歩けたなあ」〉
親戚中の話題の人物だったというが、けっして明るい噂話ばかりではなかったことがうかがえる。
その後、上京した長尾さん一家は、前述のとおり、’70年暮れから寂聴さんと同じ東京都文京区のビンテージマンション「本郷ハウス」で暮らすようになる。
「もともとは父が事業に失敗し、私が4歳のときに徳島から逃げるように上京したわが家でした。このときは、はあちゃんとは挨拶だけでしたが、その後、父は出版関係の仕事で安定した生活を得て、本郷ハウスの7階に引っ越します。
すると同じ日に、はあちゃんも11階で荷ほどきの最中だったんです。で、私に『あら、手伝いに来てくれたの』って(笑)。本当に偶然に同じ日に同じ場所への転居で、私も母もびっくりでした」
もっと驚いたのは、伝説のはあちゃんの暮らしぶりだった。
「こんな生活って世の中にあるんだ、と。デザイナーが選んだ北欧家具で統一された部屋にジャズが流れて。はあちゃんの普段着のオシャレも独特で、ジーパンに上はヴィトンにシャネルだったり。その後、中学2年で評伝小説の資料探しの手伝いを始めました」
すでに『夏の終り』で女流文学賞を受け、続いて『かの子撩乱』など話題作をものにし、多くの連載も抱えていた時期だった。
「はあちゃんの指示を受けて、私は神保町の老舗古書店さんを行ったり来たりでした。そのうち店主と顔なじみになって、『その資料なら、○○書店にあるはずだから、連絡しといてやるよ』ということも。学校の文芸部の活動より、よっぽどおもしろかったです」
のちに自身もライター業などをする長尾さんには、寂聴さんから学ぶことも多かった。
「これだけ膨大な資料を集め、集中して目を通していても、作品になるときにはほとんど捨てていくんだと。そのストイックさに、プロの作家の流儀を知らされました」