■夫は中野区のローカル新聞の記者 結婚の翌日に新聞の集金に行ってくれと頼まれて
涌井さんは、1931年(昭和6年)4月、静岡県藤枝市に生まれた。
幼いころから文学少女だった涌井さんは、
「東京の大きな短歌の会にも参加するようになったんです。その場所が、中野でした」
そこの会員だった新聞記者を通じて知り合ったのが、夫となる啓権さんだった。
’58年、中野区の鷺宮に引っ越し、新婚生活が始まった。
「新聞の集金に行ってくれ」
夫の啓権さんから突然言われたのは、結婚の翌日だった。
「そりゃ、驚きましたよ。仲人だったローカル紙の社長にすれば、社員を雇うより記者の家族を使ったほうが安く上がるので、『新妻をタダ働きさせよう』と(笑)」
実際は歩合制のアルバイトで、これは涌井さんにとっても、いわば天の助けだった。
「すごく安月給でしたから、少しでもバイト代をいただけるのは、ありがたかった。当時、1軒集金すると8円もらえたんです。『お豆腐8円、こんにゃく8円』なんてつぶやきながら、集金に回ったものです」
あとでわかるが、これが涌井さんの記者修業の第一歩となった。
「静岡から上京したばかりで、道なんて、わからないでしょう。だから、主人に地図を描いてもらって、それを頼りに歩きました。そうやって、迷い迷いしながら、中野区の道路を、それこそ裏道まで覚えていったんです」
結婚から15年。3人の娘もでき、母親業と新聞制作の助手をしながら、あわただしい日々を送っていたとき、思いがけない出来事が起きる。
「主人が、勤めていた新聞社の社長との意見の相違があって、独立することになるんです」
こうして、夫婦2人で『週刊とうきょう』を創刊。’74年1月だった。この前年には、中野駅前のシンボルともいうべき中野サンプラザも開業していた。
「“週刊”でもないし、“東京”でもないわけですから、看板に偽りばかりですよね(笑)。
でもね、主人も最初は中野区以外の取材もするつもりだったし、当初は月3回発行したことも。それでも月2回になったのは、主人の体調のせいも。もともと糖尿もあったりで丈夫じゃなかったから、私から、『お父さん、無理しないで月2回でゆきましょう』と」
創刊に当たっては、夫とこんな約束をした。
「当時は中野だけでローカル新聞が紙ありましたが、『悪口は書かない』『広告主も一般人も平等に記事にする』と決めました」
もちろん印刷も写真も、デジタル技術などほとんどない時代。
「活版印刷で、締切りギリギリに主人の原稿や写真フィルムが上がって、私が自転車で製版所や印刷所に届けることも多かった」
相変わらず集金も涌井さんの役割だったが、一方で家族は増えて、4姉妹はどんどん成長していく。
「子供たちは全員、保育園と学童のお世話になりました。ときには主人の取材が重なって、私がピンチヒッターをすることもあり、保育園のお迎えに行けず、街の赤電話から『あと15分だけ待ってください』と保母さんにお願いするのもたびたびでした」
しかし、’82年4月、主筆だった夫の啓権さんが、夢半ばにして亡くなってしまう。
「糖尿病など持病もありましたが、最後は肝臓がんで。当時の日本では一般的でしたが、告知をしなかったので、本人は復帰するつもりで、ベッドの上でも亡くなる直前まで記事を書き続けていました」
新聞発行に関しては、誰もがもう存続は困難だろうと思っていた。涌井さん自身も、
「長い間、手伝いこそしていましたが、新聞作りは、いわばド素人。ですから、主人の記者仲間や印刷所などの関係者、それに購読者の方たちも、廃刊になるのだろうと考えているようでした。私も、仕方ない、と諦めていたというのが正直な気持ちです」
ところが、四十九日の法要の席だった。夫の遺影を眺めていて、涌井さんは、ふと思う。
「夢だった新聞を創刊して、たった8年ですからね。最期までベッドでペンを握っていた姿を思い出して、さぞ無念だったろうと。やっぱり、私が後を継いでやらないと、主人も、この新聞もかわいそうと思ったんです」
周囲にその気持ちを告げると、意外なことに、ほとんどの人が、
「記事は下手でもいいから、かあちゃん新聞でいいから、続けてよ」
ああ、夫は、この新聞は、中野の人たちに本当に愛されていたんだ、と改めて思い知らされるのだった。そして、その決意は、夫の死後に発行された新聞の一隅に「社告」として表明された。
〈『週刊とうきょう』の営業は引き続き涌井友子が主人の遺志を継ぎ継続させて頂きたく存じますので、今後ともよろしくご指導ご鞭撻頂きたく伏してお願い申し上げます 涌井友子〉
こうして、夫の残したニコンFを首からぶら下げて、4人姉妹を育てながら、かあちゃん記者となった。ちょうど50歳だった。