■赤ちゃんをおぶりながら取材にいそしむ50歳のかあちゃん記者
「私が、主催する会のイベントの司会者としてステージで話していると、行くところ行くところに、赤ちゃんをおぶって会場を歩きまわりながら、鉛筆をなめなめしてメモを取っている女性がいて、とても目立ったんです。
その健気な姿に共感して声をかけ、中野サンプラザの喫茶室でお話ししました。そしたら、どっちも母親で、自分のことだけでなく、地域のためにも頑張ろうとしていて、意気投合するんです」
中野区で、こちらも長い間ボランティア活動を続けている世代間交流「夢のかけ橋」会長の丸山陽子さん(81)が語る。
やがて、かあちゃん記者の記事に、こんな評価が。
「新たに紙面に『女性の視点が加わった』と言われました。男性は広い目で社会を見る、私は女性記者として、一人の母親として、生活に密着した記事が多かったかも。
上高田の少年野球チームが猛暑の中で練習している光景を見て、次の取材時に手作りした梅干しを持参したら、すごく喜ばれて。翌年には『梅干し、待ってました』なんて言われるようになったり。
そんなローカルならではの温かみは、大切にしましたね。
「新聞作りは山あり谷ありでしたが、これまで一度も休刊してないのが、私の記者としての誇り。
いちばん好きなのは、選挙取材。地域密着のローカル紙だからこそ、必ず全立候補者の事務所を回ります。今じゃ、候補者の背中を見ると当落がわかるなんて話してたら、ある議員さんから『おっかねえ』なんて言われました(笑)」
と、涌井さん。
前出の次女の久美子さんが新聞作りをサポートするようになってもう20年になる。ずっと同居もしており、すでに記者として母の後を継ぐことも表明している。
「母は話したがりませんが、父が亡くなったあと、新聞だけでは私たち4人姉妹を食べさせることができなくて、2度ほど生命保険の外交員をしていた時期もありました。三足のわらじだったわけです。
最近も、私が母の代わりに取材に行くと、『あの、おんぶされていた赤ちゃんが、とうとう一人で取材に来るようになったか』と言われることも。実は、それは末の妹のことなんですが(笑)」
今では、新聞制作もデジタル化しており、パソコンへの記事の入力や割り付けを久美子さんが担っている。
「記事は母、入稿は私という二人三脚です。父は、私たち家族にお金は残してくれませんでしたが、母にローカル新聞という生きがいを残してくれた。そのことは、娘としても感謝しています」
『週刊とうきょう』は来年早々にも50周年を迎えるが、その前に今夏に、ほぼ同じ歴史を持つ、あの中野サンプラザが閉館する。
「もちろん記事にするつもりで、今から準備しています。中野がこんな若者の街になるとは、新聞を創刊したころには想像もしていませんでしたが、これからも中野という街の変化と変わらないよさを、私のペンで伝え続けたい」
このインタビューの日も、その中野サンプラザで行われるイベントの取材のため、寒風の中、ペンとカメラを手に、青い杖をついて中野の街へと繰り出してゆくかあちゃん記者だった。