■料理本に、食べ歩きを重ねて、独学でのピザ修業。電気のピザ窯もネット通販で取り寄せた
「あんた、いくら出せる?」
「私は虎の子の30万円がある」
「うちは、孫が進学したばかりだから、せいぜい5万かな」
出資金を集めたときのことを、キョウコさんが振り返る。
「6人が出せる金額はバラバラ。でも、誰からも文句一つ出なかった。みんなが主婦経験者で、それぞれの家庭に事情があるのを、お互いさまと知ってたから」
役場との交渉では、起業に当たって、出された条件が一つあった。
「すぐ隣にある道の駅の商品とかぶらないこと、でした。でも、これは、私たちには逆に好都合の条件。『やっぱりピザだ!』と、全員一致で即決したの」
さて、店のネーミングだが、
「若い人がやるピザ屋は当たり前。当時で平均年齢75歳のババアたちがやるんだから(笑)、これはもう『BaBaピザ』しかないでしょう」
キョウコさんの提案に、これも全員一致で決まり。
それからすぐに、6人は独学でのピザ修業を始めた。現在、2代目「笑の会」会長でもあるタカコさんは、
「料理本やユーチューブで勉強したり、6人で食べ歩きしたり。みんな、歯に衣着せぬタイプだから、『ここはイマイチだべ』なんて言いながら(笑)」
そんななかで、店の方向性が明確になっていく。キョウコさんは、
「ここでやるなら、九十九里のハマグリやイワシ、地元の野菜にこだわって作ろうと。それが結果的に、よそにはないオリジナルなメニューにつながったんです」
同時に、店内や厨房の備品などもそろえていった。
「全員がベテラン主婦だから、1円でも安くてよいものを探そうと、みんなでかっぱ橋に行ったり、孫たちにも手伝ってもらいパソコンでも調べたり。結局、ピザ作りの主役ともいえる電気のピザ窯もネット通販で取り寄せたの」
こうして’19年6月、オープンの日を迎えた。
ところが、独学での準備だっただけに、いざ開店してみると、試行錯誤の連続だったという。たとえば、生地を延ばす担当のタカコさん。今では両手を巧みに使い、きれいな円形に仕上げるが、
「最初は、めん棒を使って薄く延ばしても、なかなか丸くならなかったり破れたりで苦労したもの。
それがオープンから数週間後、たまたまテレビにピザ作りの世界チャンピオンが出ていて、粉をこれでもかというくらい振りかけている。それをまねたら、ウソのように上手にできるようになったの。だから、本当に初期のお客さんたちは不ぞろいのピザを食べていたと思うんです。もう、ごめんなさいですね」
タカコさんは、経営的にも苦しい時期が続いたと話す。
「最初の2年間は、ほとんど無報酬。まず知名度がない。だから、ママ友に電話をかけまくって、『今、ヒマ? ピザ食べたくない?』って勧誘してた(笑)」
オープンから半年後、まず地元紙に店の記事が出て、’20年春にはテレビ番組『人生の楽園』(テレビ朝日系)でも取り上げられたことで、週末には途切れなくお客が訪れるようになっていた。
なんとか、みんなでやっていけそうと、キョウコさんも安心していたという。ところが、
「テレビで紹介された直後に、日本中がコロナ禍に。’20年は1年の半分が閉店状態だったけど、誰からも『もうやめよう』という言葉は出なかったわね」
コロナによる休業中も、6人はふだんどおりに週に何度か集まっては、フラダンスやオカリナ演奏などをできる範囲で楽しんだ。
そして昨年6月。再び人気番組『オモウマい店』(中京テレビ)に登場したのを機に関東全域からお客が集まり、現実に行列のできる店となる。
「テーブル3つで11人収容という小さな店舗ですから、入りきれないお客さんは、駐車場の車の中でピザを頰張るという、申し訳ないような、ありがたい光景も多く見られます」(キョウコさん)
そして取材にお邪魔したこの日も、オープンと同時に、次々とお客が押し寄せるのだった。その様子を眺めていたら、
「はい、お願いね!」
突然、キョウコさんから記者に、笑顔で伝票が手渡された。厨房まで届けてほしい、とのことだった。
「うちに取材に来た人には、みんな、手伝ってもらうのよ」
なるほど。大慌てで取材ノートをしまい、厨房まで速足で向かうと、少々恥ずかしかったが、大きな声で告げた。
「ハマグリ2、イワシ1です」
するとスタッフたちも、とびきりの笑顔で返してくれる。
「あいよー! 新入りの店員さんから注文が入ったよ。張り切って作んなきゃね!」