日本での生活開始から1年、ウクライナ避難民家族の「たった一つの願い」
画像を見る 堺市内にある「くら寿司」の加工場で親子で働いている(写真提供:くら寿司)

 

現在、リュボフィさんたちが生活しているのは、堺市の市営住宅。来日後、2カ月間は日本語学校に通いながら、近所を散策し、日本での生活に慣れる訓練をした。その後、末娘・アニータさん(9)は地元の市立小学校に編入。いっぽう、リュボフィさん夫妻、それに長男・ラミンさん(16)は仕事を探していた。夫の友人の協力もあって、3人は昨年10月から、回転寿司チェーン「くら寿司」の寿司ネタを作る加工場で働いている。

 

「商品として提供するために魚を切る仕事です。はじめは不安もありましたけれど、少しずつ慣れてきました。家族一緒に同じところで働かせてもらえるのはありがたいです。ずっと下を向いて作業を続けるのは大変ですが、休み時間には職場の皆さんに日本語を教えてもらったり、私たちがウクライナ語を教えたり。カタコトの英語と身振り手振りでお話もできて、楽しく仕事をさせてもらっています」

 

慣れない日本での生活。とはいえ、仕事も見つかり、リュボフィさんたち家族にも、少しずつ笑顔が戻ってきた。だが戦争は、彼女たちが祖国を離れて1年以上がたったいまも終わる気配すらない。

 

「アニータは、通訳の方が週2日、一緒に登校してくれて、なんとか勉強にもついていけています。でも、自分だけまわりの子とは違うというのを感じているようで……」

 

リュボフィさんは顔を曇らせる。それは、アニータさんがときおり、涙ながらにこう訴えるから。

 

「早くウクライナに帰ろうよ」

 

娘の言葉に、父母は言葉を失いそうになるという。

 

「なだめすかすようにして『あと半年だから』とか、『あと1年だけ我慢して』と話すのが精いっぱいで。私のその言葉に、アニータはさらに激しく泣きじゃくってしまいます。親として、本当につらいです」

 

リュボフィさん自身、いまも突然涙があふれてくることがある。

 

「テレビやインターネットは基本的に見ません。つらいニュースに触れたくないから。見てしまうと夜、眠れなくなります。ウクライナのことを考えて、落ち込んで、頭が痛くなることもあります」

 

祖国を離れる決断を下したころは「秋には帰れる」と思っていた。秋になり、日本で仕事を得たころには「来年春には、きっと戦争も終わる」、そう信じていた。

 

「国からこんなに遠く離れて、これほど長い時間過ごした経験はありません。故郷に残してきた母や長女が心配でなりません。母はもう86歳になってしまいました。第二次世界大戦も経験した母は『私は生まれたときも、死ぬときも戦争なんだね』と、悲しい声で電話してきます。そんな母の言葉を聞くのも、とてもつらいです。

 

戦争が終わって平和になったウクライナの家で、昔のように家族みんなで暮らす、それが何よりの願いです」

 

彼らは前を向いて生きる。8千キロ離れた祖国に、平和が訪れる日を信じてーー。

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