「袴田事件」姉弟愛が拓いた再審の道! 姉・ひで子さん「48年ぶりに確かめた弟の手の温もり」
画像を見る 「巖が無罪になるってことはわかってる」とひで子さん(写真:落合由利子)

 

■「本物の巖だ!」。48年ぶりに握りしめた弟の手の温もり

 

年月と共に世間では袴田事件の記憶も薄れ、弁護団や支援者の間で重い空気が流れていたころ、ひで子さんは思い切った行動に出る。

 

「巖が帰ってきたときのために」と、59歳で住宅ローンを組み、浜松市内に3階建てのマンションを建てたのだ。

 

「思い詰めてもしょうがない。ここらで自分が生きる目的が欲しいと思ってね。たまたま銀行がお金を貸してくれたから(笑)、巖と一緒に住むためのマンションを建てることにしたの」

 

ローンは約20年かけて79歳で完済。この間、ひで子さんは経理の仕事を続け、自身は無料の社宅に住んで、マンションの賃料をローン返済に充てた。

 

「よくそんな年で、と言われたけど、60だって100だって、やるときゃやるのよ(笑)」

 

そう言って、豪快に笑うひで子さん。この人並みはずれたバイタリティが弁護団や支援者を巻き込んで、事態を好転させていく。

 

第一次再審請求の特別抗告が続いていたころ、第一審で巖さんの死刑判決文を書いた元裁判官の熊本典道さんが、〈私は無罪を確信していた〉と公表したのだ。

 

一審当時、裁判官3人のうち熊本さんは唯一無罪を主張した。しかし、最終合議では2対1で敗れて、信念に反して有罪の判決文を書き、長年、自責の念を抱えていたという。

 

「“今さら”と怒る人もいたけど、黙っている役人が多い中で告白してくれたことがうれしかった」

 

この熊本さんの告白が、巖さんの“無罪”を世に強く印象づけることになる。続いて、支援者の一人で「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹さんが、“5点の衣類”に付着していた血痕の色の不自然さに着目。

 

「味噌タンクに1年以上もつけられていたのに、こんなに赤みや濃淡が残っているのはおかしいと思ったんです。それで実験してみよう、と」(山崎さん)

 

山崎さんは、弁護団や専門家らを巻き込み、味噌づけ実験を数年かけて行った。

 

「すると、味噌につけてから、わずか1カ月程度で布に付着した血液は黒くなり、濃淡の見分けすらつかなくなることが判明したんです」(山崎さん)

 

つまり、赤みや濃淡が残る“5点の衣類”は、発見される直前に捜査機関が味噌タンクに入れた“ねつ造”の疑いが強まったのだ。

 

弁護団は2008年、これらを新証拠として静岡地裁に第二次再審請求を行う。その審理の中では、“5点の衣類”に付着した血液が〈被害者のものでも巖さんのものでもない〉ことがDNA鑑定によって結論づけられた。

 

そして迎えた2014年3月27日。冒頭のように静岡地方裁判所の村山浩昭裁判長は、再審開始とともに異例の“拘置停止(巖さんの釈放)”という英断を下す。

 

再審決定の知らせを受け、すぐ東京拘置所に飛んだひで子さん。この時点では、釈放が決まったことは知らされていなかった。

 

「巖に面会して再審開始決定を伝えたら、『もう裁判は終わってる。帰ってくれ』と、いつもの調子でトンチンカンなことを言うから、明日もう一度来ようと思って帰ろうとしていたの。すると係の人が、『荷物をお返ししますからお待ちください』と。待っていたら巖が出てきて、私の隣にストンと座って。ぼそっと『釈放された』と言ったのよ」

 

まさか釈放されると思っていなかったひで子さんは、「本物の巖だ!」と叫んで、巖さんの手を握りしめた。

 

「そりゃうれしかったよ! 村山元裁判長には本当に感謝しています。当時、巖は体調が悪くて、あと1年釈放が遅れたら獄中死していたかもしれんから」

 

ひで子さん81歳、巖さん78歳。実に48年ぶりに確かめ合った姉弟の温もりだった。以来2人は、ひで子さんが「いつか巖と住もう」と建てたマンションで暮らしている。

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