7浪して医学部、国家試験に2回落ちて53歳で医師になった女性「それでも諦めなかった理由」
画像を見る 「まだまだやりたいことがたくさん」と語る貴子さん(写真:永谷正樹)

 

■研修医になるも、看護師からは嫌がらせを受けて……

 

「いつも頭にあったのは、お金のこと。まず入学金が約800万円で、諸経費を引いた年間の学費が約600万円。学ぶために最低限必要な金額だけでも、わが家にはまったく余裕がありません。

 

子供も増えて、貯金もすでに底をつく状況でしたから、頼みの綱は奨学金。島根県のへき地医療関係の奨学金を申請してもとても足りずに、結局、7カ所の奨学金を受けることになります。総額ですか。その後の留年もありますから、全部で家3軒分くらいとなりましたね」

 

さらに大学2年、42歳のときには高齢出産で次男が誕生。6歳、3歳、0歳と、3人の子供たちはみな、最短の生後50日から保育園に預けた。このころ、充雅さんも退職して愛知で教育コンサルタントとして独立し、家族がそろう。

 

「私は朝6時に起き、8時に子供と保育園へ。夕方7時ごろにお迎えに行って9時に寝かしつけると、それから大学で24時間開放されている学習室に行って勉強し、深夜2時に帰宅して寝ていました。

 

ただ、私の母も島根から来てくれたり、義理の両親、夫の援助があったからこそ成り立った両立生活で、家族には感謝しています」

 

しかし、本人の頑張りや周囲の協力もむなしく、留年が続く。

 

「なぜか、ラストの試験で必ず落第点を取ってしまうんです。考えるに、小中学生のときの先生から『お前はダメだ』と言われ続けたトラウマがあって、ここぞという試験でアガってしまう。この悩みは、ヒプノセラピー(催眠療法)を受け解消できました。

 

また、このまま国家試験に受からないのではという不安が消えずに、うつ状態になって眠れなくなり、睡眠薬の量を増やしても効かない“眠剤地獄”に陥ったりも。このときは朝まで夫に愚痴を聞いてもらって、何とかしのぎました」

 

そして53歳のとき、3度目の挑戦で医師国家試験に合格。医師を志して22年目の悲願達成だった。

 

「でも、研修医となっての2年間は、いつもロッカー前で泣いてましたね。手術室で、大先輩の男性医師から、指示と違うからと、オペ中に『出ていけ』と言われたり。これは、自分が未熟だからと耐えましたが……」

 

納得できないこともあった。

 

「理不尽だったのは、一部のベテラン看護師さんからの無視や、わざと足を踏まれることなど。若い男性医師と私とふたりでいて、明らかに私が前にいるのにスルーされて、男性医師にだけ『先生、お疲れさまです』と。“こんな年とって医者になってどうするの”ということのようでしたが、やっぱり落ち込みました」

 

研修を終えると、自分の体験を生かせるとの思いから産婦人科を選択。その後は、救急医療も行う基幹病院や自毛植毛を扱うクリニックなどを経て、コロナ禍の2022年には、医師不在となっていた愛知県幸田町の日高医院へ。

 

「薄毛治療の自毛植毛に関わったというのは、私自身がかつて抜毛症に苦しんだ過去があったからです。やがて、大病院から地域医療まで体験するなかで、以前から関心のあった在宅診療への思いが強くなって、2023年春に名古屋大学病院の研修登録医となりました」

 

そして現在、平日は冒頭のクリニックを含め、3つの名古屋大学病院の関連医療施設で勤務。

 

「土日のほとんども、医療アルバイトの日々です。休んでいる時間はありません。いまだ奨学金の返済の真っただ中で、ようやく半分を返せたところでしょうか。ただ、以前と違うのは、子供たちも自立して、自分のことを振り返る余裕が少しできました。

 

つくづく思うのは、自らの役割に気づいて一歩踏み出すことの大切さ。年齢とか、子供がいるとか、お金がないとか、成績が悪いとかは関係ないんです。夢を持ち続ければ、いつでも挑戦できるということをお伝えしたいと思って、今回の取材も受けました」

 

さらにインタビューを終えた数日後、こんなメールが届いた。

 

〈取材では、偉そうなことを言ったかもしれません。私が医師を目指したのは、父の死をきっかけに誰かを救いたいと思ったというのは、そのとおりです。そして今、私は誰かのために診療していますが、実はその行為のなかで、寂しさを感じている人とかつての自分を重ねていて、いちばん救われているのは私自身なのだと思います〉

 

■2人の子供も医療の道へ「これからも患者に寄り添いたい」

 

そのわが子たちについて、貴子先生自身は、こう語る。

 

「長女は私立大学薬学部の2年生で、長男はハンガリー留学中で医学部1年生、高1の次男は吹奏楽部で、今は音楽か医学かで悩んでいる最中のようです。 私の影響? それはないです(笑)。私の記事が地元の新聞などに出ると、『いや違う』『恥ずかしい』なんて言ってますから」

 

そう話しながらも、うれしそうに母親の顔になるのだった。

 

「年齢やキャリアを考えても、私は大病院でバリバリ手術して、というタイプとは違います。ただ、病気で困っている人がいたら駆けつけたい。患者さんの肩もみしながら会話するだけで、お元気になることは実際にあるんです。その原点はこれからも変わりません」

 

60代を目前にしながら、ギリギリの睡眠時間で患者に寄り添い続ける貴子先生の奮闘の日々は続く。

 

(取材・文/堀ノ内雅一)

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