「まだまだやりたいことがたくさん」と語る貴子さん(写真:永谷正樹) 画像を見る

【前編】7浪して53歳で医師に! 貴子先生語る「小中学校ではずっとクラス最下位でした」より続く

 

現在、愛知県で活躍している医師の新開貴子さん(58)は、異例の経歴の持ち主だ。彼女が医師になったのは、なんと53歳のとき。まだ、5年目の医師なのだ。

 

そんな彼女が医師になるまでのドラマを追う(全2回の2回目)。

 

■36歳でママ受験生に。搾乳しながら試験を受けた

 

短大を経ていったん東京で就職するも、体を壊し、地元の島根県に帰ってきた貴子さん。臨床心理士を目指し、2年間にわたりアルコール障害や摂食障害のセルフミーティングに関わるなかで、医師になりたいという夢が生まれる。すでに貴子さんは32歳のときだ。

 

しかし、その直後に、自分の夢をいちばん応援してくれた父が帰らぬ人になってしまう。父のためにも、医師になることを決意するが、そこからの道のりは険しいものだった。

 

「まず近所の個人塾に入って、因数分解どころか、中1の計算問題から始めました」

 

松江市の予備校へ行くようになり、ここでのちに夫となる前島充雅さん(47)と出会う。

 

「彼は横浜国立大学数学科を中退して医学部を受け直すという、つまり、医者になるという同じ目標を持っていました。ただ、年も私のほうが11歳も上で、正直、恋愛感情はありませんでした。数学を教えてもらおうという下心で(笑)私からアプローチしたんです」

 

ところが同じゴールに向かって共に学んでいくなかで、互いに惹かれ合うようになる。予備校2年目には、志望を変更した充雅さんが九州大学工学部に合格。これを機に34歳と23歳で結婚して、福岡での新婚生活が始まった。

 

一方、貴子さんは目指す国公立大学医学部には合格できずに、家事をしながらセンター試験を受け続けていたなかで長女を出産。36歳にして、ママ受験生となった。

 

「実は前年に流産していましたから、子供ができたのは本当にうれしかった。医学部受験をするからといって、子供をあきらめようとは思いませんでした。自分が寂しい子供時代だったから、にぎやかな家庭もほしかった」

 

やがて九大を卒業した充雅さんが王子製紙に就職して北海道苫小牧市での勤務となり、家族で転居。貴子さん自身も、まったく歯の立たない国公立だけでなく、私立大学も受験するようになっていた。こんなこともあった。

 

「社宅から市内の書店に行ったとき、偶然、都内の大学医学部の願書が目に留まるんです。『当日受付有効』とあり、その期限が明日と知った途端、ベビーカーの長女を連れて千歳空港から羽田行き飛行機に飛び乗ってました。

 

何とか間に合ったとホッとしたのも束の間、今度は健康診断書が要る、と。実はふたり目の子を妊娠していて、レントゲンを簡単に撮れない。都内を駆けずり回って、ようやく対応してもらえる病院を探し当てて提出しました。

 

そこまでやったのは、当時、点数は取れているのに年齢でハネられた女性受験者がいるというウワサを耳にしていて、1年でも早く受かりたいと思ったんです」

 

結果は不合格だったが、のちに有名医大が女性や年齢を重ねた受験生を入試で不利に扱っていたことが発覚。彼女の焦りも、まったくの杞憂ではなかった。

 

「その後、39歳で長男を産みました。ずっと妊娠、子育て中の受験でしたから、試験の最中も母乳のせいで胸がパンパンに張って、休み時間にトイレに駆け込んで搾乳したり。ひどいつわりで急激に5キロも痩せて脱水症状にも陥り、3カ月入院したりも。

 

そんななかでも頑張れたのは、1月のセンター試験という確固とした目標があったから。とはいえ、もう受験直後の自己採点で、合格圏内にはいないとわかるんです。すると落ち込んで冬眠状態に陥り、もう誰にも会いたくないし、桜が咲いても見たくもなかった」

 

そして長女が3歳、長男が1歳になるという年だった。

 

「さすがに子供もどんどん大きくなりますから、今年ダメだったらあきらめようと思っていました。そしたら、受かったんです」

 

8度目の受験チャレンジで、ようやく“サクラサク”の報が届く。40歳になる直前だった。愛知県名古屋市の藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学)に合格した瞬間から、喜び合ったのも束の間、夫婦の深い苦悩が始まる。

 

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