■「日本には子どもの感性を育むものがたくさんあるんですね」
ティムラズ・レジャバさんは、ジョージアの首都・トビリシで’88年に生まれた。
「父のアレキサンダーは発酵を専門とする生物学の研究者で、母のリカとともに、私を愛情深く育ててくれました」
とはいうものの、幼いころのジョージアの記憶はほとんどない。記憶を掘り起こせるのは、父が知人を頼りに広島大学に博士課程の研究者として入学することになり、来日した3歳のときから。だからレジャバさんは“日本で人生が始まった”と言う。
「日本語は理解していたのに、友達とはしゃべれない子でした。幼いながら、見た目がみんなと違うことで、うまく溶け込めなかったんでしょうね。
保育園でおもちゃを使って遊ぶとき、友達に『どっちにする?』と聞かれても、答えられないんです。『どっちか言って、ねえ、どっち?』と何度も繰り返されるうちに、休み時間が終わるという感じでした」
心配した母は、レジャバ家に日本人の来客があるときは「いろいろ質問されるから、しっかり答えないと鬼が来るよ」と脅かした。
「それが怖くて。たまたま電車が通ったとき『あれ、何?』と聞かれて、満を持して『でんしゃ』って答えたんです。それで“ああ、ちゃんとしゃべれる”と自信がついて、ふつうにコミュニケーションが取れるようになりました」
一般的な日本人の子どものように、アニメや漫画に囲まれて育った。
「アニメの『ドラゴンボール』が好きだったし、スーパーファミコンの『ドンキーコング』でよく遊んでいました。カードゲームも好きで、レアカードやシークレットカードを当てたときの喜びは忘れられません。日本には子どもの感性を育むものがたくさんあるんですね」
すくすくと育ったレジャバ少年は、小2でジョージア、小4でアメリカに移住し、小6で再来日。中・高と日本の学校で勉強やスポーツに打ち込む生活を送っていた。
「ただ高校に入るころから“自分って何者だろう”って考えるようになって。人間、誰しも思春期に考えてしまうものですが、私の場合、日本では珍しいジョージア人だったから、なおさら、考える機会が多かったんだと思います」
そこで自分のルーツを確かめるために、高校の1年間を利用して、ジョージアに帰国したという。
「母国の文学や歴史を学び、料理やダンスにふれたり、チョハという民族衣装を積極的に着たりして、ようやく“これが自分の国の文化だ”と言えるものに出合ったんですね」
足場がしっかり固まったことで、日本文化に思い切り飛び込むことができたのかもしれない。
「ジョージアで通っていたアメリカンスクールでは欧米の大学に進学するのがポピュラーでしたが、私は迷わず日本に戻りました」
早稲田大学に入学し、レジャバさんは大好きな作家である村上春樹も住んでいた「和敬塾」という学生寮で生活を始めた。
だがコンプライアンス的にはかなり“不適切”だったとか。
「もっとも驚いたのは、吐く練習をすること。『お酒はコミュニケーションを取るのに大事なものだから、吐くことに抵抗を持ってはならない』という理屈で、先輩が、何リットルもの水を飲んで、目の前で吐いてみせる。いま考えてみても、ちょっと行きすぎた慣習ですね(笑)。でも、寮生活では上下関係も学び、より深く、日本人のメンタリティを知ることができました」