泉房穂「一生立てない」障害のある弟を連れて母が心中未遂…10歳で明石市長を目指した壮絶過去
画像を見る フランス語でかわいい子を意味する愛犬「しぇり」の前では目尻が下がる

 

泉は、’63年、明石市二見町で漁業を営む父・秀男、母・小夜子の長男として生まれた。

 

「親父は戦争で3人も兄貴が死んでしまったから、家族を支えるため小学校を卒業してすぐに漁師に。親父の家の3軒隣の漁師の娘がわがオカン。貧乏漁師の息子と娘が結婚して生まれたのが私です。

 

親父は本が好きだったけど『本は目が悪くなる。漁師は目が命や』と叱られて育ったので、『せめて自分の子どもには勉強させたろ』と心に決めていたそうです」

 

泉が4歳のとき、脳性小児マヒの障害のある弟が生まれた。当時は「優生保護法」があり、とりわけ兵庫県では、「不幸な子どもの生まれない運動」と称して、障害者の存在そのものを否定する運動が始まったところだった。

 

「ひどい話やけど、それがまかり通っていた時代。医者は見殺しにするようにと言うので、親父とオカンはいったんは承諾したそうです。でも弟の顔を見て『嫌だ、この子を死なせることはできん』と思い直し、自宅に弟を連れて帰ってきました。

 

実は、弟が生まれる前年(’66年)にも母親は身ごもっていたんです。ところがこの年は60年に1度の丙午。隣近所が『男を不幸にするからろせ』の大合唱で、性別もわからないまま堕胎させられた。だから弟に関しては、たとえまわりから白眼視されても『障害があってもええ』と腹を決めたんです」

 

泉には、心に刺さったトゲのような母親の言葉がある。

 

「私が6歳のとき、2歳の弟の障害者手帳に『一生起立不能』と書かれた日に、オカンは世をはかなんで弟と無理心中を図ったんです。でも死にきれず、私を『お前がおるから死なれへんかった、お前のせいや』と怒るわけです。理不尽なオカンですわ、大好きやけど。私と似て口が悪くて、思ったことを言ってしまう。足が速くて勉強もできた私に『お前が2人ぶん取って生まれてきたから弟は歩かれへんのや、半分返せ』と。返せと言われても返されへんがな……」

 

それから泉の両親は「絶対歩かせる」と弟に器具を付けさせ猛訓練させた。医者から「一生立てない」と言われたが、弟は4歳で立ち上がり、5歳で歩き出した。

 

「これで弟と一緒に学校に行けると喜んでいたら、当時の明石市が、『ほかの児童に迷惑がかかるから遠くの学校に通え』と。なんとか頼み込んで地元の小学校に入学できましたが、その条件が『送り迎えは家族がする』『何があっても行政を訴えない』。明石市を恨みましたよ。両親は朝2時半から働いていたから、弟の送り迎えは私の役目。自分のランドセルに弟の教材を入れて、学校のトイレで入れ替えて『今日も戦ってこい』と弟を送り出していました」

 

全校児童で潮干狩りに行ったとき、弟が浅瀬で突っ伏して溺れかけていた。誰も助けてくれず、泉が慌てて抱き起こした。泥だらけの弟と歩いた帰り道、10歳だった泉はこう誓った。

 

絶対に明石を優しい街に変えてやる──。

 

【後編】泉房穂「政治家に向いていない」7歳年下妻が語る明石市長当選から暴言辞任までへ続く

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