地雷犠牲者への“整体”で向き合った人間の尊厳…18回の国際救護活動に従事した看護師・髙原美貴さんが明かす「極限状態の救護」
画像を見る 2023年9月、日本での授与式に出席した4日後にはシリアに戻り、保健コーディネーターとして内戦で傷ついた人々の声に耳を傾けていた(写真提供:日本赤十字社)

 

■憧れ続けた看護師になるも、突如退職。カナダで気づいた目指したころの気持ち

 

小学生のころから、髙原さんは看護師に憧れていた。

 

「兄が交通事故で入院したとき、優しい看護師さんがいたことは覚えていますが……」

 

そのときの印象が残っていたのだろうか。作文に看護師になりたいと書いたところ、授業参観で発表することになった。

 

「姫路の山間部で育った私は、窓から開けた景色が広々と見渡せる都会の病院で看護師として働きたいと書いたのですが、先生が『人を助けたいから』と勝手に書き換えていたんです」

 

作文を読む娘の不機嫌な顔を、母親が覚えていたという。

 

「私自身、『私、こんなん書いてへん。なんでみんなの前で読まんとあかんねん』と思っていました。そんな具合で、看護師になるのに美しい動機があったわけではないんです。お年玉でナイチンゲールの伝記を買ってもらったのも、お目当てのドリトル先生の本がなく、仕方なく手にとった本だったのが理由で(笑)」

 

漠然としていたとはいえ、髙原さんが抱いた憧れは、高校卒業後も変わることがなかった。姫路赤十字看護専門学校から、姫路赤十字病院に就職し、まさに看護師一直線の10代を過ごしていた。ところが、3年勤めたころに突如退職。髙原さんはワーキングホリデーでカナダへ渡ったのだ。

 

「看護師3年目は、新生児センター勤務でした。生後すぐに治療を必要としたり、亡くなる赤ちゃんもいました。

 

先輩からは『入れ込みすぎ。患者さんともう少し距離をとらないと、しんどくなるよ』とアドバイスされていました。カナダに渡ったのは、無力感やジレンマを感じたことがきっかけだったかもしれません。あと、ずっと故郷の狭い世界を生きてきて、単純に“外の世界へ出て冒険したい”という気持ちもあったように思います」

 

カナダではホテルのレストランやツアー会社などで働いた。3年がたったころ、ツアー会社のドライバーにこう言われた。

 

「美貴はやっぱり看護師だよ。いつもお客さんをよく見ているし、彼らのニーズを満たそうと頑張っている。それってナーシングじゃないの?」

 

いつも冗談ばかり言っていたドライバーの一言に、もやもやとした迷いが嘘のように晴れていた。

 

「そうだ、私は看護師だった!」

 

看護師を目指したころの気持ちが戻ってきた。帰国後、姫路赤十字病院に復帰すると、3年間のカナダでの経験を評価され、国際救護活動に抜擢されたのだった。

 

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