地雷犠牲者への“整体”で向き合った人間の尊厳…18回の国際救護活動に従事した看護師・髙原美貴さんが明かす「極限状態の救護」
画像を見る 2017年には、パレスチナ赤新月社の要請を受け、日赤の国際医療救援事業としてガザ地区の病院で医療調査などを行った(写真提供:日本赤十字社)

 

■巨大地震に見舞われ心にトラウマも─極限状態でも“最善を尽くす”救護とは

 

1999年に初めて国際救護活動に従事したとき、髙原さんは33歳。スーダン紛争の避難民救護のため、国境に近いケニアのロキチョキオという町に入った。

 

救護活動の主体となるICRC(赤十字国際委員会)が設営した病院で待機していると、戦闘中に銃弾で負傷したスーダン人の少年が運ばれてきた。まだ8歳ほどの幼さだった。治療を終えた少年に、

 

「村に戻っても、もう戦闘に加わることはやめようね」

 

と語りかけた。だが少年は、澄んだ目でこう言った。

 

「僕や家族が攻撃を受けたとき、誰が僕たちを守ってくれるの?」

 

髙原さんは、このとき返事に詰まったという。

 

「平和な日本で育てば、“言葉で会話をすべき”と考えるのは自然なことです。しかし、子どものときから“銃で会話をしてきた人たち”に、理想や奇麗事は通じません。私がなすべきことは、シンプルに目の前にいる傷ついた人のニーズを理解し、最善を尽くすことだと気づきました」

 

その少年やほかの戦傷者も、武器を持たず、患者として来るぶんには、国籍や民族は関係ない。

 

「生まれてからずっと戦ってきた人たちを100パーセント理解することは無理だと思っていますが、なるべくその立場に心を寄せて、支援したいと常に思っています」

 

だが救護側の思いやる気持ちは、一方通行になりがちだった。スーダンでは、ナタを持った元患者に命を狙われたこともある。

 

「回復した男性に、退院を促したことが原因でした。入院中は、1日2回の食事と屋根の下で寝られる環境が保障されますが、退院するとそれを失うことになりますから」

 

家に帰るよう告げると、彼は子どものように頬をふくらませ、不満そうに帰っていった。

 

その後、同僚とおしゃべりしていると、みんなが口々に、

 

「逃げろ!」

 

と、突然叫び始めた。家に帰った男性が、ナタを片手に持って襲ってきたのだ。

 

「頑丈な鉄の扉があるセーフルームに逃げ込んだので、何とか殺されずにすみましたが」

 

そんな目に遭っても、髙原さんはこの男性を理解しようとする。

 

「もしかしたら、“ナタで襲われなくてもすむ言い方があったのかなあ”と、後で思ったり。

 

でも、正解はない気がします。常に完璧な仕事をすることはむずかしい。そのつど現場で、よく話し合って落としどころを探っていくしかないのです」

 

髙原さんのような国際救護活動に従事する看護師の派遣先は、紛争により多数の戦傷者がいる地域、巨大地震などの自然災害の被災地、パンデミックが起きた地域など、極限状態にある場合が多い。こうした地域への派遣時には、すぐに避難できるように、ランバッグと呼ばれる非常用持ち出し袋を枕元に置く生活を送る。

 

髙原さんのランバッグには、1リットルの水、エナジーバー数本、十徳ナイフやライト、スマホのバッテリー、無線機が入っていた。

 

「シエラレオネへの派遣時、政府、反政府勢力、自警組織の勢力図が目まぐるしく変化していました。情勢しだいで診療所があるエリアの危険度が上がると、即時避難です。私もランバッグだけ持って、2回ほどヘリで避難しました」

 

現在も激しい戦火に見舞われているパレスチナ・ガザ地区。髙原さんが入ったときは戦闘が始まる前だったが、イスラエルの防空システム・アイアンドームのミサイルが、花火のように迎撃する光景をよく見ていたという。

 

「すごく危険と思われるかもしれませんが、そもそも銃弾や爆弾が飛び交うほどの危険な地域に派遣されることはありません。私たちに被害が出ると、救護活動がストップし、救えたはずの人たちを助けられなくなってしまいますから。セキュリティの専門家が同行するなど常に万全を期しているのです」

 

だが自然災害は、セキュリティの専門家であっても対応することがむずかしい。2005年、インドネシア・スマトラ島地震の復興支援調査で、シムルー島を訪れたとき、マグニチュード8.6の巨大地震に見舞われた。

 

「宿舎で水浴びをしているときでした。立っていられない大きな揺れにへたりこむと、大きな水がめからジャブジャブとこぼれる水を頭からかぶって呼吸もできず、溺れそうになりながら、揺れが収まるまで何もできませんでした」

 

なんとか命拾いしたが、髙原さんはトラウマを負ってしまった。任期を終え、帰国して新幹線に乗っていたとき、突然パニックに襲われたのだ。

 

「新幹線同士がすれ違い、ガタガタッと車体が強く揺れたことをきっかけに、急に、汗か涙かわからないもので全身がグショグショになってしまって。その場にとどまれず、車内を行ったり来たりすることしかできなくなったんです」

 

以後しばらくの間、揺れる乗り物には乗れなくなったという。しかしそれほど心に傷を負った後も、髙原さんは再び大地震後のジャワ島やハイチでの救護活動に向かっているのだ。怖くはないのか。どこからそんな勇気が湧いてくるのか。そう聞くたびに、髙原さんは表情を緩めてこう言うばかりだ。

 

「困っている人がいれば、そのとき私にできることをやる。ただ、それだけなんですよ」

 

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