左半身まひの女性ファッションデザイナー「気持ち次第で未来は変えられる」――どん底乗り越えた母との絆
画像を見る 荒川区の商店街で育った“下町の活発な女の子”だった

 

■海外ファッション大好き!幼少期から、やりたいことは全部やる子だった

 

「母方の祖父が、荒川区の熊野前商店街で手芸用品と和装小物の店を営んでいました。父は会社員、母は着付け師で祖父の店も手伝ったり。私も、その下町で育ちました。活発でよく笑う女の子でした」

 

布施田さんは、1975年10月26日、東京都生まれ。地元の公立の小・中学校では、ダンス、バドミントン、卓球、剣道と多くのスポーツをこなしていた。

 

「その後、関東国際高校を選んだのは、英語教育で有名だったから。1つ上の姉の影響で、アメリカのドラマ『ビバリーヒルズ高校白書』や『ファッション通信』を見て、海外生活に憧れていました」

 

高校卒業後は、神田外語学院へ。

 

「とにかく英語のスキルを磨きたかった。周囲には“とりあえず四大”という風潮もありましたが、私には、目的もなく過ごすのはまったくの無駄に思えて。こう考えるのは、病気の存在が大きかったと思います。元気なときには時間をフルに活用したいという思いが無意識にできていたんですね」

 

最初の体の異変は、10歳で発症した十二指腸潰瘍だった。

 

「以来、原因不明の腹痛に悩むことになります。といっても、30分から1時間ほどで痛みは治まり、検査も異常なし。いつからか、痛みを我慢するのが当たり前に。 でも、18歳のときに腸炎で最初の入院となり、このせいでグアムへの卒業旅行も、卒業式にも出られませんでした。翌年からは、潰瘍性大腸炎でステロイドを服用するようにもなりました」

 

仕事は専門学校で学んだビジネス英語を生かし、イザベル マランの日本代理店などに勤めた。

 

「ファッション好きというのは、56年着付け師をしている母の影響ですね。特に靴が大好きで、海外旅行に行くたび10足以上買うほど。 ただ持病があったせいで、社会人になっても、ほぼ毎年、1~2カ月の入院生活を送るようになります。やがて正社員は難しいとわかり、ファッションに特化した派遣会社に登録して、伊勢丹で販売員をしていました。同い年の夫と出会ったのも、この伊勢丹勤務のときでした」

 

そうして2003年2月に、広告代理店勤務の夫と結婚。その後36歳で出産するが、その入院中、人生を一変させる出来事に見舞われる。

 

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