■「何かを恨むより、娘を抱いてあげて」母の言葉が、寝たきりの危機を救った
2011年8月9日、待望の長女が誕生。その出産から8日目のこと。
「深夜の0時ごろ目が覚めて『ミルクの時間だ』と思い、ベッドから出て歩くと、足がもつれました。嫌な感じがして、ナースステーションに寄って赤ちゃんを連れてきてもらうように頼んだのですが……。だんだん左半身が冷たくなってきて、やがて意識を失うんです」
大静脈血栓症と脳出血の同時併発だった。そのまま寝たきりで、集中治療室で過ごすこと12日間。ようやく目覚めて翌月に一般病棟に移ると、主治医から告知が。
「左手足を動かすのは、もう難しいです。起きられてリハビリをしても、一生、車いす生活や寝たきりの可能性もあります」
この先、ずっと人の手を借りて生きていかないといけないんだと茫然とする布施田さんに、母親のきみ子さん(78)が語りかける。
「死んだわけじゃないんだから。何より、赤ちゃんが無事に生まれたじゃないの。何かを恨んで暮らすことに時間を費やすより、一日も早く元気になって、娘を抱いてあげることが、あの子にとっても、母親となったあなたにとっても、いちばん幸せなことだよ」
当時を思い出したのか、それまでずっと快活な口調で取材に答えていたのが突然、両の目から涙がこぼれ落ちた。この母親の言葉に救われた、とふり返る布施田さん。さらに、
「実は倒れる前、5カ月後の嵐のコンサートのチケットが取れていたんです。それも初のアリーナ席で。2008年から現在まで16年、ファンクラブに入っているくらいです。
私が意識不明のときも、夫が嵐の曲をベッドの枕元でかけながら、名前を呼び続けていてくれたほどでした」
主治医にも、こう告げていた。
「年明けの嵐のライブに行きたいので、それまでに歩けるようにしてください!」
懸命なリハビリを行い、ナゴヤドームでのコンサート観賞が、1泊2日の外出許可も出て実現した。
「私は車いすユーザーになっていたので、当日は友人に付き添われて同じくアリーナのバリアフリー席で観賞しました。ライブはもう、チョー最高でした」
このライブから2カ月後、全8カ月間の入院生活を経て退院。同時に、左半身まひの状態での乳児の子育てが始まる。
「入院中に、家事に加えて子育てに向けた作業療法も始めていました。ミルクをあげたあとにゲップさせたり、抱っこしたり、オムツを替えたり……すべて右手中心です。どうしても一人ではできない赤ちゃんのお風呂だけは、夫に手伝ってもらいましたが」
母親として、娘の保育園の送り迎えも自分でやりたかった。
「下肢装具を装着して、車いすなしでの歩行練習もしました。退院前から、リハビリの先生と保育園までの道をバギーを押しながら歩いたり。当時の私の体で往復約50分の道のりですから、結果的にいいリハビリになったと思います。
できないことを嘆くのではなく、どうすれば片手でもできるのかを考えて生活しました」
退院後の早い時期から、大好きな趣味も再開した。
「作業療法士の先生から『好きなこともリハビリになる』と聞き、またゴルフもやりたいと思ったんです。なので、ふだんの歯磨きをしながらでも、体重移動の練習をするなどしていましたね」 娘の成長も実感しながら充実した日々を送っていた’13年秋だった。38歳のとき、10代から患っていた持病の潰瘍性大腸炎が再び悪化。
「痛い、眠れない、食べられないで、体重も1年半で13キロ減りました。またあのステロイド生活に戻るのかと、うつ状態に。
何より悩んだのは、2歳の娘のこと。私は30分おきにトイレに駆け込むような状態でしたが、娘はそこまで後を追って付いてくるんです。この、いちばん母親を必要とする時期のわが子と、入院して離れたくないということが常に頭にあり、食事療法などで何とかしのいでいたんです」
このママの頑張りが結果的に、病状をさらに悪化させてしまう。
「ちょうどオムツ離れの時期だった娘がおもらしして、心身疲れ果てていた私は、つい八つ当たりしてしまいました。自己嫌悪に陥り、この出来事がきっかけで、入院を決断しました」
【後編】48歳、左半身まひの女性ファッションデザイナーが挑む「障がい者の人生を前に進める」靴づくりへ続く
(取材・文:堀ノ内雅一)