■家出先に会いにきてくれた母のおにぎりには筋子がぎっしり詰まっていて――
右近由美子さんは’52年6月23日に生まれ、新潟県新潟市で育った。父・由二さんは苦労人で厳格だったという。
「父は10歳で父親を亡くし、尋常小学校を辞めて豆腐店に丁稚に行きましたが、体が小さくて1日でクビに。樺太に移住してとろろ昆布の箱入れ作業をしながら、職場の人に勉強を教わったそうです。
戦時中は満州にも渡り、残酷な場面に遭遇しており、人に言えない苦労があったそうです。
そんな背景もあってか父は“正しく生きること”に関しては、とても厳しくて。私には耐えられませんでした」
ボタンが取れそうになっている服を着ていたら「女がそれじゃダメだ」と引きちぎられた。
「私が『うん』と返事すると、『はいと返事しないと、お父さんが笑われるんだぞ』といちいち怒られる。厳しすぎる父のことが嫌いでした」
いっぽう母の時子さんは「とにかく優しかった」という。右近さんが父に怒られると、間に入ってその場を収め、後でこっそり「お父さんは苦労しすぎて、根性が悪くなっちゃったの」と寄り添ってくれた。
子供好きの右近さんは、保育園の先生になるために大学進学を希望したが、父は「女に大学は必要ない」と、にべもなかった。
「大学に行けないのなら、学校に行く意味なんてないと思って。高校に行かずに、停学処分を受けたこともありました。
夜は、当時は不良の溜まり場だったディスコに行ったり。深夜に帰宅すると、父が激怒しないよう、母がこっそり家の鍵を開けてくれました」
結局、夢を実現できず、高校卒業後は、燃料会社の新潟営業所に事務員として就職した。
「1年ほど働きましたが“こんな生活嫌だ!”って。それで19歳のとき、お給料をもらったその足で家出したんです」
翌日に東京・上野に到着。給料袋には2~3万円しか入っていなかった。家出少女として補導されないよう、衣類を詰め込んだ紙袋をコインロッカーに預け、仕事を得るために履歴書も持たずビジネス街・大手町に移動するが――。
「その日は建国記念日だったので閑散としていました(笑)。あきらめて上野に引き返して、喫茶店でコーヒーを飲んで……。
店員さんに仕事を探していることを話すと、『隣の喫茶店なら募集している』というので、すぐにお願いに行きました」
いかにも右近さんが“わけあり”に見えたのだろう。『相部屋だけど、寮もあるので住み込みで働けますよ』と受け入れてくれた。
「とにかく節目で大事な人と出会ってきました。いまの私があるのは人との出会い、縁のおかげなんです」
仕事と住居が決まったところで、心配している母に電話した。
「父は、私の家出を知って激昂し、暴れて、なだめに来た隣のおじさんの首を絞めたりしたそうです。でも私にも意地がありました」
母は会いに来てくれることになったが、右近さんは『おにぎりを3、4個持ってきてほしい』と手紙を書いたという。
「すると、大きなのりを1枚ベロンと巻いたおにぎりを、いくつか持って来てくれて。私はもったいなくて、しばらく眺めてからじゃないと食べられませんでした」
ようやく手にしたおにぎりの中からは、今ではぼんごの人気具材となっている筋子が、これでもかというほど詰め込まれていた。
「我が家では筋子は贅沢品で、いつも『チビチビ食べなさい』というのが母の口癖だったのに……。
そんな母の優しさがつまったおにぎりが、私のおにぎりの原点であり、目標なんです」