■途絶えた「だいち3号」の信号「生きようとしてもがく姿に涙があふれました」
人工衛星の設計では、まず観測データを取るために必要な高度や軌道を決めていく。そこから通信スピードなどを考慮し、必要な電力を割り出すことで、太陽電池パドルの大きさが決まってくるという。
「3号と4号の違いは観測装置がカメラなのかレーダーなのかだけで、大枠は同じものだったので、2機の人工衛星を同時進行で作り上げるような工程でした」
そのため残業や夜勤も少なくなかった。夫も仕事が忙しいため、実家の母に子育てを手伝ってもらった。そんな生活を7年続けて完成しただいち3号は、’23年3月にロケットで宇宙に飛び立つことに。
笠間さんはその当日、三菱電機の鎌倉製作所の運用室で、打ち上げ作業にあたった。種子島宇宙センターのスタッフとも常に連絡を取り合い、異常なく、ロケットは打ち上がったかに見えたのだが……。
ロケットの第1エンジンが切り離され、第2エンジンに点火するタイミングで、種子島からの連絡を受けたJAXAスタッフが叫んだのだ。
「指令破壊!」
その瞬間、運用室が凍りついた。何らかの不具合が生じたために打ち上げ継続は困難で、ロケットを落下させると判断されたのだ。
「“え!? 何があったの!?”って。でもモニターを見る限り、だいち3号は“元気”だったんですね」
だが衛星を格納したロケットは大気圏に突入して燃え始めた。それでも3号は信号を送り続ける。
「その信号も次第に途切れ途切れになって……。最後まで生きようとしてもがく姿に、思わず涙があふれました」
ついにロケットは太平洋に落ち、完全に信号が途絶えた。まるで病院で人が亡くなったとき、モニターの波形が消えてしまうように─―。
三菱電機、JAXAが8年もかけて歩んだプロジェクトの思いがけない結末に、誰もが言葉を失ったという。
「設計や実験、製造などを含めると何百人単位の人たちの努力の結晶です。特にだいち3号は、2人目の息子の育休から復職してすぐに関わってきたので、子供の年齢とほぼ同じで、いっしょにいる時間は子供よりも長く、愛情を込めて作り上げた衛星です。わが子のような人工衛星が海に沈んでしまったのかと考えると、本当に切なくて……」
当日は「ママの人工衛星が打ち上がるよ」と言って子供たちを送り出していたため、結果を知った昴くんからも、慰めのメッセージが届いた。
「LINEで『ドンマイ』って一言だけ(笑)。その軽い感じで逆に救われました」
打ち上げ失敗の夜、笠間さんは翌日に休暇をとることを知らせるメールで、若手を含めたスタッフ全員に思いを伝えた。
《我が子を失った悲しみを乗り越えるために英気を養ってきます》
実は3号喪失のショックは現在も引きずっているという。当時を振り返ると大粒の涙を浮かべてしまうが、それでも4号を成功に導かなければならない。
「次に打ち上げとなる4号は、3号と同じプラットフォームを使っているので、3号の経験は無駄になっていないと信じました」
笠間さんは再び前を向き始めた。組み上がっていく4号を見ては、細心の注意を払ってコード1本1本に流れる電気信号を丁寧に、不具合がないか確認していく。
「最後、完成してコンテナに積むときは“元気で行ってこいよ!”と送り出しました。
うちの会社ではどの人工衛星の打ち上げでも、必ず近くの鶴岡八幡宮へ行って、高いお札を買ってくるんです。最先端の技術を結集させている仕事ですが、最後は神頼みなんですね(笑)」
’24年7月1日、だいち4号の打ち上げ時も、笠間さんは神に祈っていた。ロケットの2段目のエンジンに点火するとき、だいち3号のときの悪夢がよみがえりそうになったが……、
「自宅で見ていたYouTubeの映像の隅に表示されるロケット速度が増えていく様子を、祈る気持ちで見守っていました。そこでしっかりと《第2段エンジン燃焼開始しました》と音声が流れ、一安心できたんです」
さらに軌道上でロケットから正常に分離した人工衛星は、太陽電池パドルを広げて、太陽に向かい電力を自給自足し始めた。
「私が夜勤のために筑波の宇宙センターに到着したころには、衛星の信号をキャッチし、運用できる状況が整いつつありました」
目標とした軌道上に到着したとき、ロケット側のカメラが、分離されただいち4号が宇宙空間に飛び立つ姿を捉えていた。
「背景に地球が見えるなか、徐々にだいち4号がロケットから離れていきます。それが4号を見る最後の姿。でも、宇宙という自分の手の届かないところでも、4号とはつながっていられるんですね。その感覚って、なんとも言えず不思議で面白いんですよ」
3号の失敗で流していた涙が、4号の成功により、うれし涙に変わった。
「私のなかで、3号を弔うことができました」
