■「頼むから、手伝ってくれへんか」と父は初めて、娘たちに頭を下げた
「パン屋って、そないにもうかる仕事じゃない。ただ、僕はもの作るんが好きで、それを誰かが食べてくれて、おいしいと言われることに喜びを感じる。長年続けられたのは、そういうとこなんでしょう」
父・正悟さんはこう言うと照れくさそうに笑った。
高校を卒業以来、パン職人の道を一筋に歩んできた。私生活では1989年、職場で知り合った千秋さんと結婚。正悟さん26歳、千秋さんは22歳だった。やがて、1993年に長女、1994年に次女、そして1997年に三女・麗奈さん(28)と、3人の子宝にも恵まれた。
そして2006年。正悟さんは兵庫県西宮市の、フランチャイズのパン店の店長になった。
「大手スーパーのなかに店舗を構えた“インストアベーカリー”でしたから、スーパーが休業の元日以外に休みはナシ。ほんま、あのころは休んだ記憶ないね(苦笑)」
妻と二人三脚で、早朝から深夜まで、働きづめの日々を送りながら「いつかは独自ブランドのパンの店を開きたい」と思い描いた。それが夫婦の夢だった。
ところが2014年4月、がんを患っていた千秋さんが46歳の若さで早逝してしまう。まさに、その日が21回目の誕生日だったという長女・舞美さんは言う。
「専門学校を卒業して、エステの企業に就職、エステティシャンとして働き始めた直後でした。末の妹の麗ちゃんから『お姉ちゃんすぐ来て!』と電話をもらって慌てて病院に。家族4人が見守るなか、母は静かに息を引き取って……」
舞美さんいわく、千秋さんは「天真爛漫な人だった」という。
「闘病生活も長かったから、月に何度も、夜中に救急車を呼ぶような、つらい時期もありましたけど。基本的にはめっちゃ明るくて、いつも笑っている、それが母でした」
太陽のような存在だった母の死は、家族に暗い影を落とす。最愛の妻を亡くした正悟さんはひどく落ち込んでいた。仕事上でも、千秋さんは重要なパートナーだった。
「妻にはずっと店に入ってもらってましたから。しばらくは店のスタッフたちと、なんとか回してましたけど、経営は徐々に厳しくなってきて。それで、娘たちに『頼むから、手伝ってくれへんか』と」
父は初めて、娘たちに頭を下げた。最初に応えたのは長女だった。
「ちょうど私、結婚したばかりで。大阪市の東住吉区で暮らしていたんです。そこから西宮まで毎日、片道1時間半かけて通いました」
元日以外、無休の店。職人かたぎで、店のことすべてを自分が見ないと気が済まない父は、休みを取ろうとしなかった。
「気付いたら、私もその“休めへんルーティン”に組み込まれてて(苦笑)。このままじゃあかん、と思い始めたころ、いちばん下の妹が専門学校をやめてしまって。彼女も放っておけないし店は人手が必要だし。それで誘ったんです。『麗ちゃん、一緒にやろう!』と」
母の死は、次女にも傷を残す。
「そのショックもあったん違うかな。ずっと奥手だった私は、ちょうど母が他界したころ、変な男に引っかかってしまって……」
美容師になるのが夢だった優里さんは専門学校卒業後、地元の美容室に就職。だが、10代終わりに20歳近く年上の男性と出会い、家族の反対を押し切り“駆け落ち”。
「入籍直後の22歳で長女を産んだんですけど。その子が0歳のうちに離婚する羽目に。元夫の借金を肩代わりさせられたりして、ボロボロになって実家に戻り、姉に誘われ店を手伝うように」
父と3人の娘がそろって働くようになっても、母の不在は尾を引いていた。父は、かつてのように夢を語ろうとしなくなった。それが舞美さんには歯がゆく思えた。「自分の店、なんでやらへんの?」と率直な思いをぶつけたこともあった。
当時、家族が身を粉にして働いていた店は、地下のスーパーのなかにあった。
「母が他界してから、父はずっとしんどそうでした。優里もなんか離婚後の、メンタルがへこんだままの状態。店の空気も地下だからか、どんよりよどんでいるようで。このままここにおったら、みんながおかしくなる、そう思ったんです」
舞美さんは物件を探し始めた。父母の夢をかなえたかった。自分の店なら、休みも取れると考えた。なにより、小さくてもいいから、明るく風通しのいい店で家族全員、心機一転を図りたかった。
「『地下から抜け出そう!』、その一心(笑)。それに、いまも人気のアップルパイですけど、当時から、すごくおいしいと評判で。父が作るアップルパイを、もっとたくさんの人に食べてもらいたかったから、人口が断然多い大阪に店を出そうと考え、父を説得したんです」
こうして、2020年。「ブーランジェリーショー」の阿倍野出店が決まった。グランドオープンは5月9日の予定だった。
