「息子と一緒にもっと家族写真を撮っておけばよかった」ある母親の心残りが“絆画”作家・大村さんの誕生のきっかけに
画像を見る 高校卒業後、イベント会社に就職し似顔絵師に。多いときで1日100人、延べ15万人もの似顔絵を描いた

 

■「家族と一緒の絵なら、いまからでも僕が描いてあげられると思った」

 

しかし、どんなバブルも、いずれははじけ飛ぶ。

 

「万博が終わったあたりからですかね、以前のように簡単に稼ぐことができなくなっていきました」

 

似顔絵師の数が急増、インターネットも普及し、似顔絵の通販も始まった。価格競争が激化した。

 

「浮かれて仕事をしていた僕は、画力を磨いたり、自分の絵のファンを獲得するということもしてこなかった。似顔絵が売れなくなって、給料は激減。でも、爆上げした生活水準を落とすことができなくて。25歳のころには、借金まみれ、首が回らなくなってました」

 

大村さんは当初、この苦境は自分が招いたこととは思わなかった。

 

「うまいこと商売ができてない会社が悪いとか、安値で似顔絵を売る業者が悪いとか、全部を他人のせいにしていました」

 

原因を他者に求めたところで、当然だが困窮ぶりは改善しない。やがて大村さんは似顔絵師をやめて、少しでも給料のいい仕事に転職することを真剣に考え始める。

 

「でも、どんなに給料が安かったとしても、絵をやめることのほうが、自分にはつらいって気づいたんです。絵を手放したくなかった。絵をやめた自分を想像したら、無性につらくなってしまったんです」

 

やっと大村さんは「自分が悪かったんだ」と気づく。そして、自問を繰り返した。「僕が絵を続ける意味はなんだ?」。たどり着いた答えは「誰かの役に立つ、誰かが喜んでくれる絵を描きたい」だった。

 

「その気持ちを大事にしながら、似顔絵師を続けました。普通、1人の似顔絵を描くには15分、カップルなら30分はかかる。そこで、ただ黙々と描くのではなく『なぜ似顔絵を?』『似顔絵は何回目?』などなど、会話することを心がけました。

 

ときには職場や家庭の愚痴を聞いたりも。お客さんが絵を見返したとき『似顔絵師の人とこんなこと話したな』と振り返れるような、共有した時間も持って帰ってもらおうと考えたんです」

 

気持ちを入れ替え、借金完済に向けて励んでいた27歳のとき。仕事中に、ある人の訃報が届く。

 

「彦根(滋賀県)のショッピングセンターで似顔絵を描いているときでした。実家の母から電話がきて。友人が急逝したことを知らされたんです」

 

友達がほとんどいなかった大村さん。亡くなったのは、唯一「親友」と呼べるような、中学時代から交流が続いていた人だった。

 

「馬が合い、中学、高校と、よく一緒に遊びました。似顔絵師としてデビューした直後には、わざわざ仕事場まで来てくれて『似顔絵描いてくれ』って。『無料でいいよ』と言う僕に、『今日は客として来たから、お金もちゃんと払うよ』と言ってくれた。

 

でも、僕がどんどんお金もうけ優先の生活を続けていくなか、だんだん疎遠になって、連絡も取らなくなっていたんです」

 

知らせを受けた大村さんは、その足で友人の実家に向かった。

 

「病で突然、亡くなってしまったということでした。お線香をあげさせてもらったお仏壇に、あの日、描いた似顔絵があって。

 

彼のお母さんに『この絵、まだ持っててくれたんですね?』と言うと『ずっと順くんと会いたがってたのよ』と。『順くん忙しいかな、遊びに誘っても平気かなって、いつもあなたを気にかけてた』って。

 

そんな話を聞くまでは正直、彼が亡くなったという実感もあまりなく、涙も出てこなかったんですが……」

 

彼の母の言葉を耳にした途端、大村さんは自責の念に苛まれた。そして「僕のことをそんなふうに思ってくれていた彼に、僕はもう会うことができないんだ」という思いに駆られた。気がつけば、とめどなく涙があふれていた。

 

「以後、毎年の命日や誕生日には彼を思い、彼の実家の方角に向かって手を合わせました。

 

5年が過ぎた?2017年、彼のお母さんの『息子と一緒にもっと家族写真を撮っておけばよかった』という気持ちを知ることになって。それで思ったんです。写真は無理でも、家族一緒の絵なら、いまからでも僕が描いてあげられると」

 

このとき、すでに大村さんはイベント会社を辞め、フレキシブルに働けるデザイン会社に転職していた。仕事の合間を縫い、15万人の似顔絵を描いてきた経験と技術をフルに使って、亡くなってから5年が経過し、少し大人になった“いま”の親友を描こうと思った。

 

「彼を囲むように、現在の彼のご家族も描きたいと思いました。そうすれば、お母さんやご遺族の、5年間の空白を埋めてあげられるんじゃないかって。彼はもういないけど、ご家族がともに生きた時間を表現してみたかったんです」

 

完成した絵を届けた日。「しんみりしたくなかった」という大村さん。いつもの似顔絵のときと同じように「はい、できましたー」と努めて明るく披露すると……。

 

「絵を見た瞬間、お母さんも、それにお父さんも『ありがとう』と口は動いてるんですけど、もう声になってなくて。顔をぐちゃぐちゃにして号泣。僕も一緒になって泣いて。泣きながらご両親は『まるで、あの子が生きてるみたいだ』と言ってくれたんです。

 

その瞬間、僕、思ったんです。『これを、一生かけてでもやりたい、これこそが、僕が絵を続ける理由だ』って」

 

2017年。この亡き親友の絵が「絆画」の第一号に。そして、大村さんは「絆画作家」になった。

 

(取材・文:仲本剛)

 

【後編】故人の性格や癖までも描く大村さん。絆画を通じて、子どもたちの自死を少しでも減らしたいへ続く

 

画像ページ >【写真あり】2022年に次女が生まれたのを機に、亡くなった長男の“いま”を描いた絆画(他3枚)

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