「遺産目当てだろう」と嫌味、実父からも裁判寸前…慶喜家“最後の当主”の57歳主婦軋轢にも負けず“家じまい”に奔走する理由
画像を見る 「母から受け継いだ着物などは、私には史料ではなく遺品。家族の物語を続けるためにも家じまいを進めてまいります」(撮影:高野広美)

 

■手放すことで得られるものはある。私の家じまいは、“現代の大政奉還”

 

「美喜ちゃん、あとはよろしくね」

 

約4年に及んだ美喜さんの懸命の介護のかいもあり、がんは寛解した慶朝さんだったが、この言葉を残し、’17年9月25日、虚血性心筋梗塞により67歳で生涯を閉じた。

 

「生前の叔父とは、互いの価値観を共有する宝物のような時間を過ごせました。高松宮御殿の思い出話などは、同じ体験をした2人だからこそできたと思います。また、フリーカメラマンでのんびりとした性格だったアンクル。徳川家の交流会などとも距離を置き、周囲から“徳川の男っぽくない”と思われて、親戚から軽んじられるなど、悔しい思いをしていたことも伝わりました」

 

しかし、思い出に浸る時間はなかった。慶朝さんは正式な遺言により、親族には男子がいるにもかかわらず、姪の美喜さんを第五代当主に指名。さらに遺言書には「(一部史料等を除き)すべての財産を寄贈する」と書き残していたのだ。

 

「介護の日々を通じて、信頼してくれたのだと思います。また私が女性で、『結婚して徳川姓でなくなったことで家を閉じやすいのでは』といった話を、叔父がしていたのも覚えています。叔父は生前から、絶家について弁護士にも相談していたのですが、長く病床にあって、自分では実現できなかったのでした」

 

こうして一気に「徳川家」の当事者となった美喜さんは、以降、想像すらしなかった事態に巻き込まれていく。最初は、まさに叔父・慶朝さんの葬儀だった。

 

「一部の親戚から『山岸美喜が喪主になるのはおかしい』との声があがったのです。そのため私は葬祭責任者として末席に座り、挨拶もなしとして親族へ配慮しました。遺言に従い、参列者も10人ほどの質素な葬儀でした。遺言書では祭祀継承者の指名はなく、ここから、絶家に関わる手続きを一つ一つ積み重ねていくことになります。親族の説得には8年かかりました」

 

美喜さんには、絶家にあたり「6千点ともいわれる膨大な史料整理」と「墓じまい」という大きな2つの役目が課せられたが、この祭祀継承権を持たなければ、法的にも墓の移転や整理はできないのだった。

 

「祭祀継承者は、徳川の歴史の中でも初めてのことでした。私自身、第五代当主になって改めて気付かされたことも多いです。それまでは普通の専業主婦でしたが、当主となってから家にあったアルバムを見返すと、大好きだった和子おばあちゃまが赤ちゃんだった母を抱く古い写真があったりして。“私の母も歴史の中にいたんだ”と実感しました」

 

やがて、その歴史の流れに自身の存在を再認識するようになる。

 

「寄贈などについて学芸員や関係者の方たちと話をするなかで、うちのアルバムや母から受け継いだ私の着物なども大切に保管していくべきだと改めて思うようになったのです。しかし、ある学芸員からは、『いまどきこうした着物を古着屋さんに持っていっても二束三文なんですよね』と言われ、家族の歴史を踏みにじられたような思いをしたこともありました」

 

悔しい体験は、ほかにも多くあった。

 

「私が博物館などに『慶喜家に伝わる史料数千点の寄贈を検討しているのですが』と持ちかけても要領を得ず、その場で断られたり。史料すべてを寄贈しようと働きかけていた歴史館の式典では、私への招待状の送り忘れ、さらにはいちばん後ろの席となっていたり。『もし私が男性で、徳川姓だったなら』と思ったことは数知れません」

 

もっとも近しいはずの親族との関係さえ、以前とは一変した。

 

「徳川ではない実の父から、祭祀継承権をめぐり裁判を起こされそうになったり、上の兄とも疎遠になってしまいました。幼いころかわいがってくれていたおじさまが突然、『徳川の墓は男の私が継ぐべきで、そのためにはお金がかかるから遺産を受け取りたい』と言ってきたときは、本当に深く傷つきました」

 

当時の美喜さんについて、夫の直人さんが語る。

 

「彼女は心身をすり減らして奮闘していました。私は見守る立場でしたが、いつも思っていたのは、ほかの徳川の親族や頼りになるはずの男性らは、自分たちのことなのにどうして手を貸してあげないんだろう、ということでした」

 

当の美喜さんは、活動の過程でさらに信念を固めていく。

 

「絶家に関わる一連の行動には、叔父の遺言と、徳川の家を守るという明確な目的があります。史料も墓も私たちの手は離れますが、国や博物館などしかるべきところにお任せすることで、パブリックなものとしてこれからも多くの人たちに接していただき、覚えていてもらえることになります。手放すことで得られるものって、あると思うんです。慶喜の大政奉還も、政権を返すことで日本を守った。私のやっていることも、その意味で“現代の大政奉還”と捉えています」

 

そして前述のとおり、昨年10月27日、Xにて祭祀継承者として正式決定した旨と、改めて絶家の宣言が行われた。「よくぞ決断なさった」「うちも人ごとではない」といった共感の声とともに、「歴史ある名家を途絶えさせていいのか」「なんとか存続を」といった厳しい意見も多く寄せられた。

 

これまでも否定的な投稿や親族との軋轢もあったが、常に真摯に受け止め、最善策を模索してきた美喜さん。「私、メンタル強いんです」とほほ笑みながら話すが、いつも前向きでいられる原動力とはなんだろうか。

 

「幼いころ、男性上位の考えの強い父のため、母が苦しむ姿を見たり、私も女であることで兄たちに比べて見下されているのも感じていて、実は自分に自信が持てない子でした。

 

男女平等社会とはいえ、きっといま、各家庭で介護や家の整理をしている主婦や女性たちも、私と同じモヤモヤを感じているのではないでしょうか」

 

さらに「主婦」の強みについて、語気を強める。

 

「もう物事をあいまいにはせず、正義と平等の心で判断しようと決めました。専業主婦でしたから、それこそが強みだったと思うんです。職業や肩書がない分、いろんなことや人をフラットに見ることができたんですね。徳川家だから偉い、なんてことはもうないです。その考えでいけば男女も関係なく助け合うべきなんですが……徳川家の男はポンコツだらけですから(笑)。関係者との話し合いでも、私はしっかりメモや録音を取ったりしていて、最後には論破してしまう。さぞ、かわいくない女だろうと思います(笑)」

 

常に胸にあるのは、慶喜公や叔父が大切にしてきた「愛情と思いやりをもって人と接する」という姿勢や、家康公の「怒りは敵と思え」の遺訓である。

 

「家じまいは、終わらせるための作業ではなく、徳川の家の歴史を続けるためなんです。いつか私が天国に行ったとき、慶喜やアンクルから『美喜、よくやった』と言ってもらえることを楽しみに、自分らしく進めていきます」

 

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