「新党を作れ!」認知症の菅直人元首相が選挙特番の“中道惨敗”に叫び…妻・伸子さんが「介護生活」
画像を見る 夫の政治活動を支えてきた伸子さん(写真:時事通信)

 

■「なんとかしなさい!」妻の叱咤で真相解明が

 

菅直人と伸子夫妻は、いとこ同士。伸子さんが津田塾大学3年生のときに、菅氏(当時、東京工業大学2年生)の実家に下宿。それから親しくなった2人は、4年後の1970年に結婚する。

 

「いとこなので、幼少のころにも法事などで会ってはいますが、ほとんど覚えていないんです。覚えているのは、私が中学1年で主人が小学6年生のとき、夏休みに兄と遊びに行ったら、彼が一人でずっとしゃべっていて、“うるさいガキだな”と思ったのが第一印象でしたね(笑)」

 

結婚後、菅氏は弁理士となるが同時に、婦人運動家・市川房枝氏らのもとで市民運動にも参加。その後政治家への道をたどる。1980年、衆議院選挙で初当選。若き市民派代議士の誕生は、多くのメディアでも取り上げられた。

 

1996年、厚生大臣だった菅氏は、血友病患者の治療に非加熱製剤を使用し、多数のHIV感染者やエイズ患者を生み出した薬害エイズ事件の真相究明に着手。国が責任を認めるに至った。じつは、そのきっかけを作ったのは伸子さんだった。

 

「国や製薬会社を相手取って起こしていた薬害エイズ訴訟の原告で、実名公表していた川田龍平さんと会って話を聞く機会がありました。薬害によって多くの命が奪われているのに、なぜ国は被害拡大を防ぐことができなかったのか。その真相が解明されないのはどう考えてもおかしい。そう思ったので、家に帰ってから主人に、“なんとかしなさいよ!”って、怒鳴りながら、調査をするように背中を押しました」

 

そして菅氏といえば、やはり2011年3月11日に発生した東日本大震災。とくに福島第一原発事故の対応では、自ら現地視察も行った。

 

「総理官邸と公邸は隣り合わせなんですが、陣頭指揮を執らないといけないので、震災直後から1週間以上帰ってきませんでした。それは官邸に詰めている官僚や職員たちも同じで、まともに食事をとる時間さえもなかった。

 

若いスタッフから“カップラーメンよりカップ焼きそばのほうが、冷めても食べられる”と聞いたのですが、近隣のコンビニから商品が消えていたので、京都でスーパーマーケットを経営している知人に電話で相談しました。

 

翌朝7時、カップ焼きそばを満載したトラックが到着したという連絡が入り、うれしさのあまり急いで道路まで走って、トラックを公邸の中まで誘導しました」

 

政界を引退するまでは、2人で政治にまつわる白熱した議論を交わすことも多かったという。菅氏は伸子さんのことを“家庭内野党”と呼んでいたほどだ。

 

「昔は2人でよく議論をしていましたね。だいたい私が論破するんです(笑)。でも今は、もう政治にほとんど興味がないって感じで、私が話を振っても乗ってきません。新聞も毎日読まなくなったし、それほど政治には関心がなくなってしまったようですね」

 

だが、先の総選挙で政治家の本能をのぞかせる出来事が起きた。2人で選挙特番を見ていたときに、“自民党歴史的大勝”“中道改革連合大惨敗”のテロップが出た。その瞬間、菅氏は「チャンスだ! 新党を作れ!」と、叫んだそうだ。

 

「ビックリしました。ふだん、政治の話なんてしないのに、突然声を上げましたから。これまで自分がやってきたことが、頭のどこかで感覚的に残っていたのかも。驚いたけど、面白いな~と(笑)」

 

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