9月29日、作家・山崎豊子さんが呼吸不全のため亡くなった。享年88。週刊新潮に連載中の『約束の海』はすでに第一部20話を書き上げていたという。彼女の才能を見出した名物編集者・斎藤十一氏(享年86)から「あなたはペンと紙を持って棺に入るべき人だ」と言われた通りの最期だった。

そんな山崎さんが引退を決意したことがあった。中国残留孤児についての取材を重ねた末、91年に『大地の子』を書き上げた後のことだ。実は当時、彼女は大きな岐路を迎えていたという。夫で画家の杉本亀久雄さんの持病だった糖尿病が悪化し、入退院を繰り返すようになっていたのだ。

「杉本さんは病床でも絵筆を取り続けていました……」と語るのは、杉本さんと親交のあった日動画廊の社長・長谷川徳七氏だ。杉本さんは山崎さんが毎日新聞社で勤務していたころの先輩だった。61年に結婚した後、妻と同じように退職して画家へと転身。そんな夫を、山崎さんはいつも応援していたという。

「4回ほど彼の個展を開きましたが、いつも必ず山崎さんがお見えになっていました。妻として振る舞うというよりも、温かく見守るという感じでしたね。でも、次第に杉本さんが病に伏せるようになってしまって……。彼は最後まで『まだまだ描きたいんだ』と言っていたそうです」

杉本さんは92年に71歳で死去。31年連れ添った夫の最後について、山崎さんはこう明かしている。

《息絶える直前、唇がわずかに動き、数語つぶやきました。(中略)目に残るのは、死に顔より、白い寝具の上に置かれたスケッチブックとクレパスです。病床で、死ぬ間際まで描き続けていました》(週刊新潮92年6月25日号)

「描きたい」と最期まで願った夫からの“遺言”を受け取った山崎さん。その後、彼女は引退することなく『沈まぬ太陽』や『運命の人』などの話題作を執筆し、「生涯作家」であり続けた。長谷川氏がこう続ける。

「山崎さんは夫の葬儀でも気丈に振る舞い、決して涙を見せませんでした。芸術家とは、どれだけ作品を残しても『まだ描きたい』という思いが溢れてくるもの。杉本さんがそうでした。山崎さんもそんな姿を見ていたからこそ、執筆を続けられたのかもしれませんね」

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