《4年に一度のWカップに出場します。セリエAで活躍しているぼくは 日本に帰り ミーティングをし 10番をもらってチームの看板です。ブラジルと決勝戦をし 2対1でブラジルを破りたい》と綴られた卒業文集。これは本田圭佑選手(28)が小学生のときに綴ったものだ。その言葉を次々と実現してきた彼は、ACミランの10番となり日本代表としてW杯を闘っている。だが、本田の作文には次のような一節もあった。

《世界一になったら 大金持ちになって親孝行する》
 
本田の両親は彼が小学校2年生のときに離婚。兄と本田は父方に引き取られている。母・A子さんは大阪に住み続けて息子たちを応援していたが、病気がちだったため広島県の実家へ戻ることに。だが本田はたびたび電車を乗り継ぎ、母に会いに行っていたという。そんななかでも練習に励んだ本田は中学卒業と同時に金沢の高校へ。05年には名古屋グランパスエイトへの入団を果たし、08年にはオランダのクラブへ移籍。そのころ現在の夫人との結婚を決意した本田は、母のもとを訪れていた。親族が当時をこう振り返る。

「A子さんとその親戚みんなが集まり、お祝いの食事会をしました。印象に残っているのは圭佑くんと奥さんが帰るとき。2人がタクシーに乗ると、お母さんは車の窓ガラスに顔をくっつけるようにして名残惜しそうに声を掛け続けていました」

 4年前の10年6月に開催された南アフリカW杯では近所の住民が集まり、A子さんとともに応援したという。実はW杯を翌月に控えた同年5月、本田は広島県をひそかに訪れていた。その1か月前に、A子さんの父親が亡くなっていたのだ。

「このころ、圭佑くんから頻繁に広島の家に電話がかかってくるようになっていました。当時、お母さんは体調を崩すことが多くなっていたんです。大一番の直前にわざわざ広島に駆けつけたのは、お母さんへの心配もあったのだと思います」(前出・住民)

 さらに母方の祖父の死に続き、1年後には祖母も他界。両親を亡くしたA子さんは、自宅を引き払い、別の場所で暮らしているという。実家のあった土地は、更地になっていた。そんな母を元気づけるのは他でもない、息子の活躍だ。近所の住民がこう語る。

「A子さんのお母さんは、亡くなる前に『圭佑が“A子と私が住む新しい家を建ててあげるから待っていて”と言ってくれた』と笑っていました。圭佑くんは一家にとって心の支え。遠い地で活躍する息子の活躍を、A子さんもきっと見守っていると思います」

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