「意識的に何かを仕掛けたわけじゃないんですけどね。モノが少ないから売り切れ、せっかく並んだんだからサイズが合わなくても買わなきゃ損、となったというか」
そう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第35回のゲスト、ファッションデザイナーのNIGO(R)(44)。原宿裏通りの店で生まれ、瞬く間にその名と猿のアイコンが世界中で知られる存在となった「A BATHING APE(R)」の創業者だ。25年前、NIGO(R)は中山の専属スタイリストをしていたという。そんな2人のぶっちゃけトーク、スタートです。
中山「意外に思われる方も多いかもしれませんが、実は25年ほど前にNIGO(R)くんは僕の専属スタイリストをやってくれていたんですよね」
NIGO(R)「はい。僕が20歳のころにお仕事をさせてもらっていました」
中山「『MILK』のデザイナーの大川ひとみさんから『これからのファッション業界を担うすごい若者がいる』と紹介されたのがNIGO(R)くんで。同じ群馬県出身という縁もあって、お願いすることになったんですよね。たしかラフォーレ原宿の喫茶店でファイルから何かを見せてもらって」
NIGO(R)「そんな営業っぽいことをしたんですね(笑)。そのあたりの記憶がとんでるなあ」
中山「“作業着系”のスタイリングを初めて見たときは度肝を抜かれましたよ」
NIGO(R)「基本Tシャツに、オーバーサイズのワークウエアとかでしたよね」
中山「『え?この作業着を上半分は着ないで腰に巻くの?』みたいな。アハハハハ。あのころ、そんなカジュアルな格好でテレビに出ている人なんかいなかったからね」
NIGO(R)「Tシャツでテレビに出ている人自体がいませんでしたよね」
中山「あれよあれよという間に、その新しいスタイルが市民権を得ていって。当時はレギュラー番組が14本くらいあったのに、NIGO(R)くんは1人でやってたよね」
NIGO(R)「はい。時間的に現場に付きっきりになれず、洋服を渡しては次の現場へ先に行って準備する、みたいな感じでした」
中山「そうそう。それで『シャツはこんなふうにパンツから出して』とか、丁寧に絵に描いて何から何まで指示してくれて。楽屋に行くと洋服はあるんだけどNIGO(R)くんがいないと思ったらソファの後ろにうずくまるように寝ていたこともあったよね(笑)」
NIGO(R)「その節は失礼しました(笑)」
中山「アハハ。『原宿でお店を始めてブランドも立ち上げようと思っているんです』なんて野望を話していたのはいくつくらい?」
NIGO(R)「たぶん21歳です。『A BATHING APE(R)』(以下APE)って名前もまだなかったと思います」
中山「ヘインズとかのTシャツに手刷りでAPEの柄がプリントしてあって、まだタグとかもついてなかった気がする」
NIGO(R)「それ、めっちゃレアですね(笑)。まだ自分たちで夜な夜な手刷りしてましたから」
中山「それが、後に『世界のAPE』になるんだからすごいよねえ。ブランドがちゃんとできたのはいつになるの?」
NIGO(R)「実ははっきりしていなくて、9月説と10月説がありまして。おそらく’93年の9月だと思います」
中山「デザイナーに集中したいということで、次のスタイリストのコを紹介してNIGO(R)くんは辞めて。デザイナーに専念してから一気にAPEは売れたんでしょう?」
NIGO(R)「いや、そんなこともないですよ。スチャダラパーとか友達のミュージシャンが“渋谷系”なんて言われて第一線に出たときに、みんなが着てくれていたことで知名度が上がって。APEだけのショップを初めて作ったのが’97年で、’98年に空前の裏原ブームがあり、’01年までに全国に30〜40店舗を出すようになっていました」
中山「全国の若者たちが、APEを求めて行列を作ったんだからすごいよね。その後はペプシとコラボしたり、美容院をやったり、プロレスの興業もしてたよね。興味がわいて仕方がなかったの?」
NIGO(R)「そうですねえ。あとは、自分の仕事を“アパレル”と決めつけたくなかったというのもあります。何をやっているのかよくわからない謎の人でいたかったというか」