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「再建手術を受けて昨日退院したばかりです。乳がんに関する手術は5回目。もう本当にこれで終わりにしたいと思っています」

 

ゆっくりと言葉を選びながら語るのは、女優の生稲晃子(47)。おニャン子クラブの一員として芸能活動を開始、解散後は女優として活躍を続けている。’03年に実業家の男性と結婚。’06年には長女が誕生している。仕事と育児のかたわら、難関である心理カウンセラーの資格も取得するなど、公私ともに充実した日々を送ってきている。だが、一方では過酷な現実を抱えていたのだ。

 

実は彼女は、’11年に乳がんが見つかっていた。しかし、家族とごく身近な関係者に打ち明けただけで、仕事を休むことなく手術や放射線、薬物療法を続けていた。そして冒頭の言葉のとおり、今年10月27日、乳房再建手術を受けたという。5年近くにわたる闘病の経緯と現在の思いを、本誌に初めて明かしてくれた。

 

最初にがんが見つかったのは、’11年4月28日のこと。くしくもその日は、生稲の43歳の誕生日だった。

 

「主治医の先生からは、『これだけ早期に発見できたのは幸運ですよ』と言っていただいて、腫瘍のある部分を切除する乳房温存手術が受けられるということでした」

 

5月6日に手術を受け、リンパ節などへの転移もなく、このときは「あとは治っていくだけ」と前向きにとらえていた。仕事も生活も、何ひとつ変わることなく、いままでどおり続ける道を選んだ。再発を防ぐため右乳房全体に放射線を照射する治療を受け、薬を服用しながらも、どうにか仕事と治療を両立させていた。“早期発見のラッキーな患者”といわれていたはずだった。

 

しかし、翌’12年の夏の終わり、再発が判明する。右乳房の表面に「にきび」のようなできものを発見し、病理検査を受けた結果、悪性だった。再手術は日帰りで、最初の手術と同様に、がんのできた部分の切除術を受けた。

 

「初めてがんが見つかったときよりも、数倍ショックでしたね。再発後は不安を抱えながらも、『このあと、何もなければ』という思いで過ごしていたのですが……。2度目の再発を発見したのは主治医の先生でした」

 

3度目の切除手術は’13年10月のことだった。温存した乳房のなかでの再発……。

 

「いつも優しく私の質問に耳を傾けてくださる主治医の先生が、『ちいさくてもがんはがん。あなどれませんよ。おそらくこれが最後の手術ではありません。次に再発をしたら、もう(命の)保証はできません』と厳しい宣告をされました。命の安全のために、右胸は全摘をするしかないということでした」

 

主治医の女性ドクターは生稲と同年代。“娘さんが成人するまではお母さんが死ぬわけにはいかないでしょう”と諭され、いつも真摯に納得できるまで説明をしてくれる病院の姿勢を信頼し、’13年12月27日に全摘手術を受けることを決めた。

 

「このときは、『もう、右胸ともお別れなんだ』というなんとも言えない気持ちでしたね。娘が前から行ってみたいと言っていた近所の銭湯に一緒に行って。2人で湯船につかりながら、“こんなふうに銭湯に来るのは最後になるのかな”なんて考えていました。これからは人の目が気になってしまうんだろうなと……。全摘手術を受けた患者さんたちは、みんなつらく悲しい思いをしているんだろうとか、いろいろなことに思いをはせました」

 

術後はそれまでに経験したことのない激痛が続いた。手術時に、乳房再建を視野に入れ、生理食塩水を少しずつ足しながら、右胸の隆起を作っていく手法をとったためだった。どの方向を向いても寝られないほどの激痛で、夜を明かしたこともあった。このときすでに、乳がんの手術は4度目になっていた。

 

そして5度目の手術となったのが、冒頭の右乳房の再建手術だ。

 

「右胸を失ってみて、人間の体ってバランスが大切なんだと改めて思いました。衣装を着用するとずれるんです。テレビに出るには、やはり再建はしたほうがいいだろうと考えました」

 

退院の翌日にインタビューに応じてくれた生稲は、血色もよく、テレビで見るとおりの元気で明るい印象だった。病の影などはみじんも感じさせない。彼女にとって、この4年8カ月でもっとも苦しかったのは、人に話せないことで、同じ病気の人たちと思いを「共有できなかった」ことだ。

 

「でもこれからは違います。言葉は悪いかもしれないけど、せっかく生きるか否かの病気になったのだから、私の体験がひとりでも多くの人の参考になれば。勇気を持ってもらえたらと思います。温泉番組なども、依頼があれば出たい。たとえがんにかかっても、これだけ元気に働けるんだということを見てほしいんです」

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