孤高の歌姫、山崎ハコ。数々のヒット曲は時代の狭間に突き刺さるように、我々の心に残っている。2008年、積極的に新たな活動へと踏み出す彼女に現在から過去、そして未来の展望を聞いた。

山崎 りりィさんもカルメン・マキさんもジョイントしたことがあるんですよ。りりィさんとはこの間 やったし、その前もマキさんとやったし。『時には母のない子のように』が出たのは、実は私が小学生、りりィさんが出たのが中学生ぐらいのときだから、世代もキャリアも違うんです。でも、いまこうやって一緒にやらせてもらって。カルメン・マキさんなんか011恐くて、口がきけないようなときがあったんですよね。いまは「あのころ、ツッパッていたからねえ。恐かったでしょう」と本人が言ってくれて。「もう寄れないぐらいでしたよ」なんて恐る恐る言うと、「だよね、ごめんね」と言ってくれるのが嬉しいですよ。そういう意味で、年を取ってよかったと思う。対等じゃないし、差はあるのに、お姉さんたちが皆優しい。「ハコちゃん、変わらないよねえ」とか、急に「ちゃん」とか言ってくれるんです。フォークとかもそうだけど、昔は、絶対に徒党を組まないというか、手をつながないような時代だった。その後の拓郎さんたち以降、絶対に腕を組んでない。仲間の反対だと思うんですよ。同じに取り上げられることは嫌だとか。私なんかもそうだった。組まないですよね。ジョイントもあまりなかったし。特に女性シンガーとのジョイントはない。遠藤賢司さんとか、長谷川きよしさんとかとちょこっとやった程度で。
[E:note]ご自分でそう決めたんですか。
山崎 う~ん。そのころは私の意思なんか一切ないけど、あたかも意思があるようなイメージのフォークシンガーだった。ただ、歌わされていたわけじゃなくて歌っているのは自分の歌ではあるけど。そういう意味では、ファンは裏切っていないかもしれないけど、露出の仕方とか、イメージ作りは自分の意思ではなかった。まあ、わりと自然には出ていましたけど。事務所は「明るいとは一切書くな」とか、笑顔の写真は全部ボツにしていました。カメラマンもうつむいている写真しか撮らない。だから、いつも「うつむいて、うつむいて」と言われていましたね。いまは笑ったときにパパっと撮ってくれるけど、当時は笑ったらカメラマンの手が止まるんですよ。事務所が指示しているか、「ハコはそのほうが絵になる」とされていたのかも。笑っているハコは要らない、というのがあったのかもしれません。歌のイメージにしても、激しく叫ぶ歌はあっても、微笑んでいるような歌はあんまりなかったしね。
[E:note]ライブでは、笑っているんですか。
山崎 笑ってないと思いますよ。MCとか、支離滅裂だから。客はおかしくて笑っているけど、意味がわからないというか、なんにも考えていない。ひとりで体力を維持するのが大変なわけですよ。だから、しゃべって疲れたくない。息もたえだえでハーハー言っているから。当時のライブを聴くと、「本当に死にそうだな」と思いますね。本当にきつかったですよ。いまより大きなギターを持って、大きなホールばかり毎日回って。そして、3日経ったらへとへとで何日か休んで、それでまた次に移動してという状態でしたから。
[E:note]そうすると、1ヵ月、2ヵ月と。
山崎 うん。だけど、体がしんどいから3日も続けられないんです。だから、1回は前後3日ぐらい取っていました。前の日に入って、次の日に大きなホールをやって、次の日に移動。それでも、きつかったですね。だから、そうやると、最高でも月・10本でしょう。それもすごくきついから、一本を必死でやるみたいな感じですね。
[E:note]移動日を含めて中1日か、中2日空くぐらいですか。大きなホールとは、どういうところですか。
山崎 東京だと、いまもあるのは九段会館とか、都市センターホールとか、読売ホール。一番大きいのが新宿厚生年金、あと渋公もあるし、昔、フォークをやっていたころは神田共立講堂もありました。あと、労音会館とかもありましたね。フォークは、そういう感じだったんですよ。
[E:note]九段会館で、ロック系はありましたね。
山崎 そうそう。読売ホールが結構多かったですね。あと、地方でもわりと有名な400、500の会館とか。北海道だと道新ホール、福岡が電気ホールとか、大阪は毎日ホールとか、御堂会館とか。それで15年ぐらい経って、ライブハウスでは何本やったかというと、実は5本しかなかった。屋根裏のこけら落としと、ロフトかなんかがひとつと、青森のなんとかでひとつと、大阪でバナナホールと神戸のチキンジョージ。そのぐらいだったんですよね。ホールってしゃべらなくても済むんですよ。「次はなんとかです」と適当に休んで、「次の曲は○○、聴いてください」という。でも、そのころからライブハウスで一からやらなければいけなくなって。ホールがだんだん少なくなってきたんです。でも、たまたまそのころに憂歌団と一緒にやらないかと声がかかっていたので、これは勉強だと思いました。憂歌団はどんなことをしゃべっているんだろうとか、アドリブはどういうことをしているんだろうとかね。決め事しかやったことがないのに、勉強、勉強で慣れていった。ジョイントしたり、ロックバンドと組んだり、いろいろやりましたね。事務所の調子が悪くて、「あっちの事務所に行ってくれる?」という時期だった。「作家としてやってくれる?」と言われたときに、歌いたくてこっそりロックバンドでやったり。「コーラスでもいいから歌わせて」とツテを頼って、作家が組んでいるローリングストーンズのコピーバンドでコーラスをやったり。

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