[E:note]デビューのきっかけになる出来事はなんでしたか。
山崎 コンテストです。家族の都合で九州から横浜に出て来て、友達と3人で「『翼をください』とかで出ようよ」と……。いつも公開録音している場所が横浜にあって。ギターを弾けるようになった頃、引っ越したので、弾きたくてしょうがなくて同級生のギターを借りていたんです。ギター弾けるんだったら、3人で出ようよって。普通の高校生です。
[E:note]そのときは、言葉よりも弾きたいという感じだったんですか。
山崎 そうそう。もう『翼をください』ですよ。赤い鳥とかに憧れて。プロになる気もなくて。それか、ピアノを弾ける友達がいたので、小坂明子さんの『あなた』にしようかとも思ったのですが、「それってソロだから、『翼をください』にしようよ」と。高校生で、それで出ようと言っていたんですよ。
[E:note]それは、何かコンテストですか。
山崎 ナショナルがスポンサーのフォークコンテストで、必ずプロのゲストがいたんですよ。ユーリンフォボリという電気売り場でラジオ関東(現ラジオ日本)の公開録音もやっていたんです。丸山圭子さんとかがゲストで出て来る。ケメの追っかけが私のクラスにいて。
山崎 そのコンテストで、ひとりがマネージャーの用に申し込んでね。でもオリジナルという規定があったので、皆、「そんな曲はない」って。「じゃあ、私が無理やり作るから」って、コード3つぐらいで作って。それで白いギターかなんか借りて1人で出たんですけど、ファン投票で11票投票入って特別賞をもらいました。そのときにレコード会社の人が審査員でいたんですよね。「どう?」と言われたんですが「無理だと思います」と言って、また高校に行っていました。でも、そのときに見ていた人が「とにかく次のコンテストに出てくれ」と。「ギターがない」と言ったら、「いっぱいあるから」って。そのときは、いろいろな人が全国から応募していたみたいですが、優勝したんだよね。そのときは審査員に新譜ジャーナルの人がいて「この子はプロになれるだろう」と言ってくれたんですけど、また「それは無理だと思います」と断って学校に行っていたんです。高校2年で優勝して、半年ぐらいは「いや、いいです」とか言っていました。でも、その年の終わりに学校の先生から「山崎、就職決めろ」と言われて。「そうか、じゃあ、プロに誘われたからそっちのほうがいいかなあ」と思って。
[E:note]じゃあ、その頃に決めたんですか。
山崎 決めましたね。3年生になってから。コンテストのところに「すいませんけど、なろうかなあ」と言ったんです。そしたら、興行屋だったんですよ。でも、興行師をやめてプロダクションを作るからということで、決まりました。だから、休学してて、あんまり学校に行かなかったです。プロになるならレッスンしなきゃいけないから、毎日エレックに通ってくれとか言われて。18歳になって、すぐレコーディングしましたし、デビューする前に新譜ジャーナルの表紙に出ました。結構反応があったみたいですよ。
[E:note]じゃあ、卒業式には。
山崎 行ってません。でも、ついこの間も学校が喜んでくれて、「パンフレットなどにハコさんを載せていいですか」と先生が言ってくれるんですよね。「全然構いません。でも、卒業と書いたら嘘ですよ」と言ったら、「はい、重々承知しております」って(笑)。
[E:note]学校はどこですか。
山崎 横浜学園です。
[E:note]でも、パンフレットに載せてくれるぐらいだったら、卒業させてくれるかもしれ031_2ないですね。大橋巨泉さんも早稲田中退だったけど、卒業生になった。
山崎 数年前には、学園祭にも呼んでくれて、私も一生懸命やったし、校長先生も学校を盛 り上げたかった。だから、赤レンガ倉庫でやった時には、校長先生からお花が届くんですよ。でも、デビューの時、当時の事務所は「ハコは別世界に行くんだから、皆、来ないで」と言ったという(笑)。それで、友達はそれを信じちゃった。ひとりと連絡を取って「うそ、私、皆に会いたいよ」と言ったら、「なんだ、そうだったの?」と言って。それで皆寄ってくれて。修学旅行も行ってなかったので。私のために泊りがけで皆と近所ですけど。クラスが二十何人しかいないんですよ。だから、試験をまともに受けてなくて、後からひとりで受けたので、ほとんど転校生状態になって。なので、そこの一番少ない科には入れてあげると言われたんです。だから、コンピュータと製図と電気で、音楽はない。工業技術系はすごい好きなんです。コンピュータは好きですけど、やりません。
[E:note]それは本当ですか。得意そうに見えませんが……。

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