山崎 日曜大工も大好きです。だからといって、自分のお家を建ててログハウスというと、い かにもフォークに……。けっこう、理数系です。早稲田の文学部に行きたいというのが憧れでしたけど、「うちは女の子のために田んぼを売るわけにはいかない」とお父さんに言われたので。「兄ちゃんだったら、田んぼを売る」って。兄貴は、エレキにかぶれていたから。私は、最初兄貴のエレキを勝手に弾いていたんです。それで『明星』とかのソングブックで適当にコードを覚えて。兄貴が「なんでこんなギターが弾けるんだ」って。いまでも兄貴は、「俺のお陰でプロになれた。感謝しろ」と言ってます。「兄ちゃんは再び中年バンドを組んでいるから、ギターを買っておくれ」とか。ほかにも、娘にフォークギターを買ってよこせとか、いろいろなことを言いますよ。アハハハ。姪っ子にしか買ってませんけど。でも、兄貴のお陰できっかけができましたね。それから、いろいろ音楽をレコードで聴きました。兄貴と年が離れているけど、ベンチャーズよりも兄貴たちは下だから、とっかかりとしてはベンチャーズをやるわけです。だから、知ってもいるし、その後はクリームとかのコピーを始めたんですよ。だから、そのころ兄貴が聴いていたのが自分に全部入っているんです。スティービー・ワンダーとかのレコードを聴きまくって、中津川フォークジャンブリーもあるし、メリージェンもあるし、舟木一夫もあるみたいな。全部片っ端から聞いていたから。だから、お父さんが聴く美空ひばりとか。民謡みたいなのもあるし、由紀さおりもあるし。私たちは中学生だと、兄貴が家で拓郎を弾いていて、学校に行くと五郎がいいとか、秀樹がいいとか、ひろみがいいとかになるわけですよ。新ご三家が私たちよりちょっと上だから。だから、何かぐちゃぐちゃでした。それでデビューすると、「拓郎のころ、やっていたよね」と言われるけど、やってないんですけどみたいな。
[E:note]そうですね。でも、皆そう思いますよね。デビューしてすぐに大活躍。
山崎 そうですね。
[E:note]曲をたくさん書かれましたけど、どのくらいですか。
山崎 とにかく2年に3枚は出さなきゃいけないから。
[E:note]そうすると、1枚でどれくらい書きましたか。
山崎 最低で15~16曲ぐらいは必要になる。次に回したり。あとはエレックからキャニオンに移りましたね。そのときは、わりと鳴り物入り状態だったんですね。映画の主題歌が流行るとか、コマーシャルがあるとか。エレックは1年で倒産して、キャニオンが受け継いで力を入れてくれたんです。だから、すごかったですね。あのころはもっとわかりやすくて、キャニオンで出すと、まず日本放送でほとんど朝から晩までみたいにかかっているんですよね。
[E:note]オールナイトニッポンのころですか。
山崎 そのころやりました。でも、二部だったから、実は目立ってないわけですけど、神話になっているんですね。あれは79年ですね。
[E:note]テープ持っていますよ。
山崎 わあ、それはすごい。だから、復刻版で日本放送がそのテープを欲しがったんですよ。お菓子を作るので。だけど、私は持ってなくて。ファンが持っていても、発売商品にするのでファンからもらうといろいろ問題がある。そっくりにもう1回録音してというぐらい、そのテープは貴重だったの。もう事務所にもなくて。でも、黄金の79年なんですって。アルフィーもまだアシスタントのころで。いつも、所さんはアシスタントの椅子でアルフィーと、2部の私が控えていました。
[E:note]それ、面白いですね。
山崎 タモリさん、やっていました。あと鶴光さん、その後にみゆきさんもやるように。キャニオンはオンパレードですね。だから、オールナイトとかで『織江の歌』はすべてにかかるんですよ。だから、「暗い歌が流行ってまんなあ」とか言いながら、鶴光さんがしゃべる。タモリさんとか、皆にそうやって言われたから。それでも朝から晩までかけて。そしてテレビスポットが流れて、あれで一躍有名になったんだと思いますね。あれのお陰だから、「暗い」と言われてもいまとなってはもう。