1974年11月12日、アフリカ・バンバーダが「ヒップホップ」と命名以来誕生したHipHop歴史。それから25年EastEnd=極東の地・日本で生まれたHipHopの未来形を担うGirl’sUnit『YA-KIUM』。ファツション、ダンス、歌、メッセージ…彼女たちのガーリーなセンスが、HipHopの新しい扉をこじ開ける。(撮影/徐 美姫)
[E:note] みなさん下町のご出身なんですよね。
MIKU:そうです。3人とも下町ですけど、出身はバラバラなんです。私は生まれも育ちも江戸川区で、ALISA が板橋区の出身で高校は荒川区、YURIEは三代続いての葛飾区なんですよ。
[E:note] 三代ですか? 稼業か何かやられているのですか。
YURIE:幼稚園を経営しています。三代前なんて、幼稚園バスが人力車なんですよ(笑)。
MIKU:ウケる(笑)!!
YURIE:リアルにセピア色の写真が残っているんですよ。人力車を引いている人がいて、上に子供が5人くらい乗っているの(笑)。
ALISA:私、初耳なんだけど!!
[E:note] 同じ東京でもちょっとずつ違うもの?
MIKU:ぜんぜん違います。でも、私とYURIEの家は自転車で行ける距離なので、けっこう同じバイブスで。
ALISA:いやぁ~、ここ(MIKU)とここ(YURIE)を一緒にしちゃったらダメでしょう。MIKUのところはすごく静かな街でのどかな感じはするけど、活気的にね、みんなイキイキしているっていうか……(笑)。
MIKU:ヤンキーって言いたいんだろぉ(笑)。
ALISA:人がみんな熱いというか、優しく話しかけてくれる。
[E:note] まあでも、そんなふうにノリとかが近いものがあったからこそグループになったのでは? そもそも、どんなことがきっかけでグループを結成したの?
MIKU:もともとは、小学校4年生とか5年生のときに同じダンススクールで一緒に踊っていた仲間で、ほかにもたくさんキッズの子たちはいたんです。ヒップホップとかダンスが好きで毎日放課後に集まって一緒に踊っていました。で、そういうことを何年もずっとやってきたとき、1999年に東京でやった『BBOY PARK』というヒップホップの祭典にキッズダンサーで出る機会があり、ヒップホップの熱いものに衝撃を受けたんですよね。「自分たちは勘違いしていたんだな」って気づかされたというか……。
[E:note] 勘違い?
MIKU:私たちが出会って小、中と踊っていたときは、ヒップホップというのはダンスのジャンルだと思っていたんですよ。踊っている曲もラップなのかヒップホップなのか、それともR&Bなのかぜんぜんわからないで、“ダンスの曲”って感覚だったんですよね。
ALISA:外国の曲だし、ジャンルなんて何でもよかったんです。
MIKU:でも、BBOY PARKに行ったことによって、ヒップホップって形じゃないんだな、っていうところに気がついたというか。ヒップホップカルチャーと呼ばれるもの、ダンスやラップ、DJやグラフィティーといった要素的なものはもちろん大事なんですけど、それぞれが繋がっていく感じとか、仲間をリスペクトする気持ちとか、みんなで音楽を通してエンジョイすることがヒップホップなんだなあって思ったんです。そこからだよね?
YURIE:ヒップホップの発端から流れ、オールドスクール、ミドルスクールっていうような流れもそのBBOY PARKに行ったから知ることができたんですよね。その会場でブレーキンとか、バトルしてる音っていうのはオールドスクール系の音楽がすごく多くて。
[E:note] オールドスクールというと、80年代半ばごろ、 Run Dmcとかですか。
MIKU:私、Run Dmcが大好きでフィギュアを持っているんですけど、D.M.C.にじっさいお会いして、一緒に『WALK THIS WAY』を歌わせていただきました。
[E:note]78年くらいに近田春夫か誰かのオールナイトニッポンで、アフリカ・バンバーダを流して、それが日本で初めてヒップホップが流されたんじゃないかな。
MIKU:超レアな話! アフリカ・バンバーダがどうやって日本に上陸したかなんて、初めて聞きました!
YURIE:当時、生まれてなかったので、いろんな先輩から話を聞きましたけど、初めてだよね(笑)。
[E:clip]明日からはYA-KYIM結成、メジャーデビューの秘話など、彼女たちのダンス人生をたっぷりとお届けしますので、ご期待ください[E:happy01]
[E:note]ヤキームオフィシャルHP:http://ya-kyim.com