[E:note]城さんご自身、ピアノではなく歌手になろうと意識されたのはいつごろですか? 鹿児島でストリートパフォーマンスされていたときにはすでに歌手を志していた?
城:島唄をやり始めたのも、島唄を(鹿児島の人に)知ってもらいたいからで、プロを目指すとはあまり考えてなかったと思います。独学でずっとお兄ちゃんと一緒にやっていて、(スカウトされた時)ストリートでやったのも、そのときたまたまで。「オーディションがあるから来ませんか?」と、せっかく声をかけてもらったし、島唄を聞いてもらおう!と島唄でオーディションを受けたんですが、そのときも歌手になる気はぜんぜんなかったですね。それが、そのオーディションから半年後くらいに、東京で全国から何組も集まる大きなライブに参加させていただきまして、出るために島唄ではないポップスの歌をレッスンしてもらったんです。そのライブで初めて、島唄以外で「人に伝えようと思って歌う歌」を歌いました。で、そこからですね、どんどん歌手になりたいと思うようになったのは。
[E:note]島唄ではなくポップスを歌って「自分の歌を人に伝えたいと思った」ということですか?
城:島唄というのはもともと譜面がないんです。ずっと歌い継がれてきたもので、親の教えや恋の歌、ほかには、薩摩藩の圧政の中で苦しいけど頑張って働いて飲もうよ、というブルースみたいなものがあって。言葉もぜんぜん、奄美の人でもわからない、ほかの土地の人はもっとわからない。でも、自分は島唄を歌って、その良さを人に伝えていきたいと思ってずっと歌ってきて、それはポップスを歌うときでも、その気持ちは共通しているというのがわかった。今は奄美の島唄の歌い方の“グイン”というのを取り入れて自分のオリジナル曲を歌っているんですけど、最初のころは、島唄とポップスはべつものとして歌っていましたね。
[E:note]島唄は島唄、ポップスはポップス、と歌い方を変えて?
城:そうです。だから、最初のころは島唄のほうが気持ち良く歌えていたし、「ポップスのほうはどうやって歌ったらよいのかわからない」というのがあったんです。だんだんに島唄とポップスをミックスした感じのものを見つけて、レッスンやレコーディングで歌い方を探しながらデビューシングルの『アイツムギ』はできた。そうやって、堺目が遠いところにあった島唄とポップスの距離が、ちょっとずつ縮まっていったんです。
[E:note]川村結花さんが作詞・作曲されたデビュー曲『アイツムギ』。最初、曲を聴いたときの印象はいかがでしたか?
城:まず、メロディーがシンプルで、最後に向かって大きく転調していくんですけど、すぐ覚えられる。芯が通った、説得力のある、それでいて、す~っと入ってくる不思議な歌だなぁと思いました。
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