「葬儀の喪主は私でした。でもやらなきゃと思っていても、冷静でいられなくて。まわりの親族に助けてもらって、何とか見送ることができたんです。葬儀は母の実家がある逗子で行いました。海の近くで、母の“旅立ち”に合わせてくれたかのような晴天でした」
肺腺がんのため6月13日にこの世を去った野際陽子さん(享年81)。あれから四十九日、長女で女優の真瀬樹里(42)は初めて母・野際さんとの知られざる思い出を語ってくれた。
58年にNHKへ入局しアナウンサーとなった野際さん。63年にTBSのドラマ「悲の器」で女優デビューすると、66年にパリへ1年間留学。帰国後の68年には、TBSのドラマ「キイハンター」がスタート。視聴率30%越えを記録し、5年間放送される大ヒット作となった。
そんな世の女性の憧れの存在だった野際さんは73年に千葉真一(78)と結婚。そして75年、38歳で真瀬を出産した。野際さんの溺愛ぶりは相当なものだったが、いっぽうでは驚くほどの厳しさも見せていたという。だが、真瀬も母親譲りの負けん気の強さがあった。
「私は5歳のときすでに『将来は女優になる!』と決めていたので、できることは何でもやろうと思いました。ピアノと水泳に始まり、バレエやエレクトーンも習うことに。お習字は毛筆とペンを習っていましたし、公文式にも通っていました。1週間が7日ではとても足りず友だちと遊ぶ暇もない。あのころが人生でいちばん忙しかったかもしれません(笑)」
当初、野際さんは真瀬が女優になることを反対していたという。しかし決して諦めない真瀬を見ているうちに、高校卒業を条件として認めてくれるようになった。親子初共演は、真瀬が19歳のときのドラマ『運命の人』(TBS系)だった。
野際さんは92年にドラマ『ずっとあなたが好きだった』(TBS系)で佐野史郎(62)の演じる「冬彦さん」を溺愛する母親役を熱演し、一世を風靡していた。
「母のスゴさは撮影中よりも、出来上がった作品を見ているときに感じることが多かったですね。本当に生意気ですが『ああ、なんていい芝居をするんだろう』とよく思っていました。現場でやりにくいと思うことはなくて、むしろ息を合わせやすかったですね。演技についてのダメ出しは、そこまでありませんでした。でもアナウンサー出身なので、発声やイントネーションなどはよく注意されたことを覚えています」
最期は親族やスタッフに見守られ、真瀬に抱きしめられながら天国へと旅立った野際さん。真瀬には、母から受け継いだ“言葉”があるという。
「母の言葉でいちばん強烈に残っているのは『いつも輝いていなさい!』というものです。母はよく『自分さえ輝いていれば、まわりは引き寄せられてくる』と言っていました。学生時代に友達関係に悩んでいたときも女優になってからも、言い方こそ違えど同じ言葉を投げかけてくれました。いつも輝いてなければならないというのは、ある意味大変なことでもあると思います。そういう意味でも、強くて厳しかった母らしい言葉ですよね」
前出の母娘初共演時、真瀬は「いつかは母を超える意気込みでやります!」と意気込みを語っていた。その意気込みを、これからも天国の野際さんに見せていくつもりだ。
「母は役者を志したときからある意味で越えられない壁でした。これからも生涯かけて目標にしていきたいです。実は仕事に関して、母と約束したことが2つあるんです。その内容は……今はまだ言えません。でもいっしょには叶えられなかったその約束を、これから私が実現していきたい。そしてそれが叶ったとき、改めてお伝えしたいと思っています」