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「『ムーラン・ルージュ』で初舞台を踏んだのは13歳のとき。この芸名は養父で主宰者の佐々木千里が、まだ子どもだった私に、2~3年したら大物になるだろうと願いを込めて『明日を待とう』と命名してくださったの」

 

そう言って、おっとりとほほ笑むのは明日待子さん(98)。日本の家庭にテレビがなかった時代に、レビューや軽演劇を上演していた「ムーラン・ルージュ新宿座」は若者たちの憧れの象徴だった。「インテリと言うならムーランを知らないと」といったハイソな雰囲気も。その場所で、現代のAKB48のごとく絶大な人気を誇った“ライブアイドル”が、明日待子さんだ。

 

昨年暮れにテレビ番組『爆報!THEフライデー』(TBS系)に出演。「元祖会いに行けるアイドル」として紹介されるや、その驚異の“アラ100美”に注目が集まり、ネット上でも続々と「かわいすぎる!」「お肌がとってもキレイ」といった称賛の声が寄せられた。

 

その笑顔に感動した本誌記者もすぐさま連絡を取ると、「2月末に舞を披露するのでいらしてください」とお招きをいただいた。向かったのは北海道札幌市、そこは一面の雪景色--。

 

「まぁまぁ、遠いところをようこそ!」

 

艶やかな藤色の和服姿で出迎えてくれたのが、日本舞踊の正派五條流宗家・五條珠淑さん。明日待子さんの“現在の芸名”である。この日は正派五條流の舞初め式。最初に、待子さんが神棚に向かって手をあわせて、柏手を打ってから力強い声でこう宣誓した。

 

「お守りください。みなさんが一層上達しますように!」

 

後継者である、家元・五條淑妃(次女・ミカさん)との母娘の舞も披露された。その凜として美しい所作に圧倒されながら、伝統の「日本初のアイドル」が目の前で繰り広げる“ステージ”に感激が押し寄せてくる。

 

そして、休憩時間になってから、待子さんに時間をいただき、デビュー当時のことを振り返ってもらった。

 

「本当に忙しかった。いつも新宿の劇場へ通う電車の中で台本を覚えて。舞台が終わると、雑誌や広告の撮影があって何本か映画にも出たわね。その合間に、母が私の手を引いて踊りや三味線のお稽古に連れていってくれました。若かったし、何より舞台が好きだったから、まるで苦にならなかったの」(待子さん)

 

待子さんは、大正9年、岩手県釜石市に9人きょうだいの末っ子として生まれた。幼いころからその才能を発揮し、小学校の学芸会で義太夫をうたえば「天才だ!」と騒がれた。さらに、可憐な容姿も評判を呼び、13歳で女優を目指して上京する。そんな彼女を一目見てほれ込んだのが「ムーラン・ルージュ新宿座」の創設者・佐々木千里夫妻。「まぁ、なんてかわいい!」とすぐさま養子縁組届を出してしまったという。

 

菊池寛、志賀直哉、吉屋信子、横光利一らの文豪をはじめ、早稲田大学や慶應の大学生たちも彼女見たさに劇場へと通い詰めた。だが直接言葉を交わす機会など皆無。ファンレターやプレゼントの類いが彼女のもとに渡ることはなかった。

 

「送られてくるお手紙は『キレイです』『お茶をのみましょう』といった内容が多く、本人がうぬぼれてしまうような褒め言葉は、芸の道の妨げになるからと、見せてもらえなかったのよね」(待子さん)

 

劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」の歴史を振り返るドキュメンタリー映画『ムーランルージュの青春』(’11年公開)を撮った田中じゅうこう監督が、明日待子さんをこう評す。

 

「今の方はご存じないと思いますが、明日待子さんといえば、俳優・森繁久彌さんほか、かつての名優たちがひれ伏すようにあがめた、本当に当時のトップアイドルでした。彼女の笑顔が今も“美しいまま”ご健在なのは、とても素晴らしいことですね」(田中監督)

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