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最近、“現役バリバリ”で活躍している80歳以上の女性が目立ちます。「人生100年時代」ともいわれる今、年を重ねるほどに輝く秘訣は何なのか。素敵な大先輩の言葉に、大きなヒントがありました。“生涯現役”を実現するための50代の過ごし方ーー。

 

「私の50代は、離婚騒動のまっ最中。相手ともめて4年もたっていたので、心がめげて生きる望みも失っていた私は、いつ、どうやって死んでしまおうか、そんなことばかり考えていたんです」

 

そう語るのは、女優・有馬稲子さん。宝塚から映画界に進み、小津安二郎、今井正ら名匠の作品に出演。舞台女優としても活躍し、近年は朗読劇で新境地を披露する有馬さんだが、「いちばん激動だった時代は50代のときかもしれない」と当時を振り返る。

 

2度目の結婚生活は安定した家庭を築こうと、仕事をセーブした時期もあったが、幸せは続かず、夫の事業が傾くと、夫婦の間に軋みが生じた。

 

「男らしい人だと思っていましたが、仕事がうまくいかずにお酒に溺れ、ついには酒乱になってしまって。私が家にいないというだけで機嫌が悪くなり、暴言を浴びせられる毎日は暗澹たるものでした」(有馬さん・以下同)

 

そんなときに運命の仕事が舞い込む。各地をさすらう盲目の瞽女(ごぜ)を描いた舞台『はなれ瞽女おりん』は、その後、有馬さんのライフワークとなっていく。

 

「それまでの女優としての評価に、自分のなかで納得がいっておらず、『代表作がほしい』と思っていたときに巡り合った名作。この作品にすがってみようかと思ったんです」

 

それでも、最初に名演出家・木村光一氏から依頼があったときには迷いもあったという有馬さん。

 

「『瞽女の役ですから三味線を弾くことになるんですよね?』と言ったら木村さんは『そうです』と。『断ったらどうなさるの?』と尋ねたら、『女優さんはいくらでもいますから、君じゃなくたって』と。そのひと言に刺激されて引き受けたんです」

 

ほぼ初心者だった三味線の猛稽古を開始すると、集中しすぎて、時に近隣から苦情が来るほどだった。のちに60代で運転免許を取得するなど、新たなチャレンジをいとわない有馬さんだが、それもこの経験から来る自信ゆえだ。

 

結局、’80年4月に始まった舞台『はなれ瞽女おりん』は、’04年までの24年間に684回を上演し、名実ともに有馬さんの代表作となった。

 

「この役をいただいた勲章でしょうね。膝が悲鳴を上げなければもっとおりんさんを続けられたのにと思います」

 

さらにこのころは、ほかにも多くの舞台出演をこなす超多忙な日々。それほどまでにがむしゃらに働いたのは、夫の保証人として背負った借金を返済するためでもあった。離婚の話し合いは5年に及び、莫大な借金を有馬さんが肩代わりすることでついに成立。返済のため田園調布の邸宅を手放すなど、私生活は大変だったというが、それでも舞台には一度として穴をあけることはなかったという。

 

「代役は立てていないのですから。あるとき生ガキに当たってひどい腹痛になったときも1日2回公演の舞台に出ました。死にそうでしたが、それくらいで台詞をとちったりはしません」

 

かつて刺激を受けた「女優はいくらでもいる」という言葉。それに対し、結果を出すことで「代役はいない」ということを証明した50代。その自信と誇りを胸に、いまも精力的に仕事をこなす有馬さんは、毎日6,000歩を歩くなど、体力作りに余念がない。

 

「出番がある限り休めないし、健康でいなければならない。それもこの仕事が好きだから続けられるのです」

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