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「ジャニー喜多川さんが好きなサウンドは“派手”。でも、ただ派手なだけじゃダメで、そこにこれまで聴いたことのない、『えっ?』という“驚き”が必要なんです。それこそ、車が宙を舞うような、ラスベガスの手品師みたいなことを、求められてきたわけですよ。たとえば、King&Princeの『シンデレラガール』もね……」

 

数台のモニターに囲まれるように置かれたキーボードを前に、編曲家・船山基紀さん(68)は語り始めた。今、ジャニーズで最も旬な“キンプリ”のデビュー曲も、船山さんの編曲だ。

 

「元の曲が、とってもいいですよね。作曲家(河田総一郎)の作品はコンピューターで作ったものだったから、それをスタジオミュージシャンで録り直しました。スパイスとして入れたのが、生のストリングス(弦楽器による演奏)。途中からヒュルルンと入ってくる。派手に、楽しく、そしてキングとプリンスだから、ノーブルな感じも出したくてね」

 

手がけた曲を聴きながら、船山さんは満足そうに髭を触った。編曲とは、作曲家が作ったメロディーを、どんな楽器の編成で演奏し、どんなハーモニーやリズムで色付けするかをアレンジする作業だ。曲全体のイメージを作り上げるのが編曲家ともいえる。

 

だから、同じ曲でも編曲が違うだけで、ヒットするか、しないか、大きく左右される。中島みゆき(67)の『時代』や沢田研二(71)の『勝手にしやがれ』、五輪真弓(61)の『恋人よ』やC-C-Bの『Romanticが止まらない』、Winkの『淋しい熱帯魚』など、時代を象徴する楽曲のアレンジを手掛けてきた。これまで2,700曲もの編曲を手がけ、編曲家部門のシングルの総売上げは、小室哲哉(60)に次いで2位。そのうちの265曲はジャニーズ関連の楽曲になる。ジャニーズ事務所の仕事を最初に手がけたのは、1970年代後半からだった。

 

「ジャニー喜多川さん(享年87)に始めて会ったときのことは強烈に覚えています。’79年、レコーディングの現場にいらしてね。羽織っていた毛皮のコートが極楽鳥みたいな、レインボーカラーなの。今でもあの色は刷り込まれていますよ」

 

当時のジャニーズは冬の時代だった。’75年3月限りで、郷ひろみ(63)が別の事務所に移籍。’78年にはフォーリーブスが解散している。’79年、ドラマ『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役に、田原俊彦(58)、近藤真彦(55)、野村義男(54)が抜擢され、「たのきんトリオ」として人気が出たのをきっかけに、翌年、田原が歌手デビュー。ジャニーズがひさびさに生んだスター候補だった。船山さんは、2枚目のシングルを担当した。

 

「メリー喜多川さん(92)がトシ(田原)を連れて、スタジオにいらしてね。トシが緊張しているのがありありとわかった。皆の期待が凄かった。事務所の命運が、19歳のトシの肩に全部かかっているみたいな……」

 

それが『ハッとして! Good』。船山さん自身、3本の指に入ると自負する作品に仕上がった。この曲は、オリコン初登場で第1位を獲得。田原は、その年のレコード大賞最優秀新人賞に輝き、ジャニーズ初の快挙をなし遂げる。以降、ジャニーズから編曲の依頼が次々とくるようになる。

 

「ジャニーさんは、バンドだけじゃダメで、ストリングスにブラスセッション(金管楽器)も入れるのを好んだ。ラスベガスの華やかさを求めたんです。僕も、ジャズなどを通して、そういう世界は大好きだった。アメリカへの憧れのようなものを共有していたから、僕の手掛けるアレンジがジャニーさんの心に刺さったんじゃないかな」

 

すでに、時代のトップアレンジャーとして活躍していた船山さんは、オリコンの年間売り上げランキング編曲家部門で1、2位の常連。だが、’82年、突如、拠点を米国・ロサンゼルスに移す。「ロスでアレンジの修行がしたい」。それが、体のいい“言い訳”だと見破ったのが、ジャニーさんだ。

 

「『船山くん、ジャニーズみたいなアイドルの仕事が嫌で、ロスにきちゃったんでしょ』。ロスを訪れたジャニーさんと会食したとき、いきなりそう言われたんです。その瞬間、冷や汗がダラ~ッと出た。仕事を毎日、目茶苦茶にやって、これじゃ壊れる、と。まぁ、逃げたようなもんでした(苦笑)」

 

夜22時から打ち合わせ、朝は5時起きで、6~9時、9時~12時の間に1曲ずつアレンジし、午後はレコーディング。そんな生活をずっと続けていた。ジャニーさんは、焦る船山さんを見て、してやったりとニヤニヤ。ご機嫌になって、アメリカ軍時代の話までしてくれた。

 

「『僕ね、鉄砲の訓練していたの。僕はね、CIAだったんだよ(笑)』とおっしゃって。でも、要は、軍の情報部所属の語学将校として、通訳で朝鮮戦争に行っていたんだって。その後、日本に戻ったという話でした」

 

ロスで生まれたジャニーさん。父親は高野山真言宗米国別院の僧侶だった。船山さんが帰国すると、すぐにまたジャニーズからオファーがきた。’85年には、少年隊のデビュー曲『仮面舞踏会』の編曲を担当。

 

「『ニューヨークで修行させている男の子が3人いる。逸材だから、絶対に売らなきゃいけない』というジャニーさんからのプレッシャーがかかっていた。『前に、ぎょっとするものをつけてくれ』と言われてね。これやったら、誰も文句は言えないだろうという5拍子のイントロをつけたんです。あり得ないから、みんないいか悪いかも判断できない。でも、ジャニーさんがすごく気に入ってくださって。斬新なものはいつも面白がってくれる」

 

その後も、田原の『抱きしめてTONIGHT』や、SMAPのデビュー曲『CAN’t Stop!! LOVING』、KinKi Kidsの『ジェットコースター・ロマンス』や『フラワー』、TOKIOの『AMBITIOUS JAPAN!』や『宙船』、近年はキンプリの『シンデレラガール』やSexy Zoneの『カラクリだらけのテンダネス』……。時代が変わっても多くのジャニーズの楽曲を手掛けてきた。

 

「新しいブームが起きるたびに、いろんな仕事が断ち切られたけど、ジャニーズの仕事はずっとある。そこで出会った仲間も大勢いる。私の編曲家人生において、ジャニーズ音楽は大きな柱です」

 

10月10日、これまでの編曲家人生を振り返って『ヒット曲の料理人 編曲家 船山基紀の時代』(リットーミュージック)を出版した。’20年、船山さんは編曲家人世45年を迎えるが、もうすでに次の仕事にとりかかっているという。時代を彩ってきた編曲家は走り続ける。

 

(取材:岡野誠)

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