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例年とは少し違った盛り上がりをみせた、令和最初の紅白歌合戦。自分らしさを前面に打ち出した氷川きよしが「限界突破」したかと思えば、MISIAは、ド派手メーク&衣装のドラァグクイーンを従え、多様な性を象徴する虹色の旗を掲げて――。

 

「私がデビューしたころとは時代が違うんですよね。私なんて、化粧してるってだけで出られなかったから(笑)」

 

こう話すのは「ピーター」こと、歌手・俳優の池畑慎之介さん(67)。映画『薔薇の葬列』で、いきなり主役を務めて鮮烈な銀幕デビューを飾った。デビュー曲『夜と朝のあいだに』は大ヒット。最近では人気ドラマ『下町ロケット』(TBS系)でイヤミな弁護士役を白髪頭で演じ、好評を博した。

 

そんな彼は’52年、大阪ミナミ・宗右衛門町に生まれた。父親は女形の舞手として名をはせた上方舞吉村流の家元で後年、人間国宝となる吉村雄輝。

 

「父の目に私は跡継ぎとしか映っていなかったと思います。稽古では竹の棒で打たれることなんてしょっちゅう、怖い人でしたよ」

 

当時、父に言われ、いまもはっきりと耳に残る言葉がある。

 

「跡継ぎなんやから、わての敷いたレールに乗っかったらええねん」

 

幼稚園も行けなかった。「どうせ舞をやるんやから。行かんでよろし」と言われ、近所の子供が幼稚園に通うのを恨めしく思いながら、慎之介少年は舞に長唄、常磐津と稽古漬けの日々を送った。

 

「6歳のとき、両親が離婚して。『どっちと暮らすか?』と聞かれて、私も姉も即座に母を選んで(苦笑)。それで、鹿児島に移ったんです」

 

父のもとで苦労を重ね、額に汗して働く母を喜ばせたい、その一心で、慎之介少年は懸命に勉強した。そして名門・ラ・サール中学校に入学を果たす。やがて、勉強への意欲よりも都会への憧れが。最初の家出は中学3年の秋。東京に出て、流行のゴーゴーバーで、客の踊りの相手をする「ゴーゴーボーイ」の職を得た。

 

本人が「すごく充実してた」と振り返る家出生活。しかし、1カ月を経たところで突如、頓挫する。

 

「女性客に『お父さん、何やってる人?』と聞かれて、バカ正直に『吉村流の家元』って答えちゃった。なんとその人、父を知る若柳流の幹部で。『なんで吉村の息子がこんなとこに!?』って騒ぎになっちゃって」

 

翌日には、東京・歌舞伎座に出演中だった父と10年ぶりの再会。すぐに、母と姉も上京し家族会議。「鹿児島には戻らない」という主張が聞き入れられ「そやったら大阪で暮らしなはれ」と相成った。

 

10年ぶりにともに暮らした父は、相も変わらず厳しかった。

 

「『あんたは舞を10年もやってへんのやから、今日から毎日、稽古やで!』って。『ああ、またこの調子か』って」

 

父への反発もあって、高校進学からわずか数カ月後の’68年夏、慎之介少年は再び、家を出た。目指したのは、やはり東京。以前と同じ店を皮切りに、3店を掛け持ちする売れっ子ゴーゴーボーイに。中性的な雰囲気で踊る美少年を、周囲の者は口々にこう噂した。

 

「男のコなの? 女のコなの? なんだかピーター・パンみたいね」

 

こうして、いつしか「ピーター」と呼ばれるように。

 

同年12月。クリスマスパーティに招かれ、いつものように踊っていると、偶然出席していた舞台美術家・朝倉摂がこう声をかけてきた。

 

「映画に出てみないかい?」

 

アイドルスター・ピーター誕生の瞬間だった。翌’69年、先述のとおり映画『薔薇の葬列』でゲイバーの売れっ子美少年の役をかれんに務め話題をさらい、デビュー曲『夜と朝のあいだに』で同年のレコード大賞最優秀新人賞を獲得。

 

「私を見た人は、テレビが壊れたと思ったそうです。イントロで『お、かわいい女のコ』と思って見てたら『夜と……』って低音で歌い始めるから(笑)」

 

“父の敷いたレール”を飛び出し、一気にスターダムにのし上がった少年時代。時代が多様性を認めていくなか、池畑慎之介さんは、これからも自分らしく生きていく。

 

「女性自身」2020年4月28日号 掲載

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