3.11から10年。生島ヒロシ振り返る母の遺骨と妹を津波に奪われた日
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■妹が夢枕に立ったなら「皆、もう大丈夫、安心してね」と言いたい

 

妹・喜代美さんの遺体が見つかって、生島さんは「ある意味、ホッとしました」と話す。

 

「でもね、その後、発見された現場まで足を運びましたが、勝手に涙があふれてきましたね。『あんまり苦しまなかったかな、でもきっと、寒かったろうな』って」

 

喜代美さんが発見された大川のほとりを記者に案内しながら、前出の同級生・廣野さんと、いとこの佐藤さんは、震災を経て生島さんが変わった点を教えてくれた。

 

「それまで以上に、気仙沼のことを気にかけるようになった。ラジオの番組も毎年3月に気仙沼から放送するなど、頻繁に足を運んでくれるようになりました」

 

廣野さんの言葉に、佐藤さんはこう続けた。

 

「番組ではよく、気仙沼出身の歌手・熊谷育美さんの『雲の遥か』を流してます。震災のことを念頭に作られた曲だと思いますが、ヒロシさん、これ聴くと必ず泣く。震災後は涙もろくなりましたよね」

 

一方、めいの理恵さんは「おじは以前にも増して前向きになったように思う」と笑う。

 

「震災後、泣いてばかりだった私は、おじから『人前に出るときは笑っていなさい』と注意されました。おじは……、10年前はさすがに笑いこそしませんでしたが、気丈でした。そして、その後はよりポジティブに。悲しみをエネルギーに変えているように見えました」

 

当初、母・喜代美さんのことをメディアで話すおじに、理恵さんは少なからず抵抗も感じていた。

 

「被災した故郷や、行方がわからない両親が、なんだかネタにされてるような気がしてしまって」

 

でも、生島さんが気仙沼について発信するその真意を、徐々に理解できるようになった。いまおじのもとを離れ、放送局の社員になった理恵さんはこう考えている。

 

「いまとなっては、ただただ私が未熟だったと反省しています。放送人としての、おじの振舞いに間違いはありませんでした。きっと、そのことは天国の母も十分、理解していると思います」

 

当の生島さんは、いつもの軽妙な語り口で、改めて力をこめた。

 

「放送人としての僕の役割は、震災を風化させず、真に復興する日までしゃべり続けることかな、と。そう、アナウンサーは死ぬまでマイクを離しませんよ!」

 

いまだ兄の夢に現れることがないという喜代美さん。もし、彼女が夢枕に立ったなら、生島さんはなんと声をかけるのだろうか?

 

「そうですね、こう言ってあげたいですね、理恵ちゃんや、遺された人たちは皆、もう大丈夫だから、『安心してね』と─」

 

こう言い終えて、生島さんは、この日いちばんの笑みを浮かべた。

 

「女性自身」2021年3月16日号 掲載

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