住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に胸をときめかせた映画の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。
「’80年代は『不良少女とよばれて』(’84年・TBS系)、『ポニーテールはふり向かない』(’85〜’86年・TBS系)など、出演した大映テレビ制作のドラマがすごくヒットしたから、5年ほど女優業にどっぷりつかっていました。当時の“大映ドラマ”の放映はたいてい半年間だったのですが、撮影期間は7カ月ほど。現在のようなデジタル機材ではなく、フィルムで1カットずつ撮影していくので、すごく時間がかかるんですね。撮影現場に泊まり込みたいって思うくらい、家に帰っても寝るだけの生活でした。それだけに撮影がすべて終了し、次回作が始まるまでのオフは貴重で、1人で新宿に出ては映画館をハシゴ。とくに好きだったのがハリウッド映画でした」
’80年代にすでに女優として活動していた伊藤かずえさん(54)。東映児童研修所に入ったことが、キャリアのスタートだ。
「あまり人としゃべらない子どもだったから、母親が心配したんですね。小学生時代はエキストラばかりで、オーディションに受かることもありませんでしたが……」
映画『花街の母』(’79年)でデビューし、中学時代は『水戸黄門』(第12部・’81〜’82年・TBS系)にレギュラー出演。平日に、しかも京都での撮影だったため、学校を休むのは日常的だった。
「新幹線での移動中は、ウォークマンでカルチャー・クラブとかの曲を聴きながら眠ったり、セリフを覚えたりする時間。まだ中学生だから、台本に読めない字もあったりして、辞書を引いたり、母親に聞いてみたりしていました」
このころ、約2万人が参加したオーディションを勝ち抜いて、映画『燃える勇者』(’81年)で、真田広之の相手役となるヒロインの座を射止めた。
「有名なタレントさんもいたから、3次審査くらいになると、心の中では“もう、どうせ(結果は)決まってるんだろうな、裏で”って思って(笑)。だから選ばれたときはびっくりしちゃって」
その翌年には、アイドルデビュー。小泉今日子、中森明菜、早見優らと同期の“花の82年組”だ。
「レコード会社からオファーがあったんですが、デビュー曲が暗い歌で、全然ヒットしませんでした」
だが、’83年の『高校聖夫婦』(TBS系)以降、次々と出演することになる大映ドラマの反響はかなり大きかった。
「当時、アイドルはデパートの屋上広場などで歌う“営業”が多くて、全国を回っていました。アイドルとしては無名でしたが、大映ドラマを見た人が会場に集まるようになって。池袋のサンシャイン広場で営業したときは、スタッフさんから『中森明菜さんが来たときと同じくらい、人が集まりました』って驚かれました」
それほど大映ドラマは、’80年代カルチャーの代表格だ。
「大きな特徴は、演出やセリフ、話の展開が突拍子もなく、劇画チックなところ。たとえば『不良少女とよばれて』では、ケンカをするシーンで『生き残ったほうが、くたばった奴の骨壺を蹴飛ばすまでさ』なんていうセリフも。“十代の女の子が言う!?”って思うけど、すっごいセンスですよね(笑)」
伊藤さんといえば、『スクール☆ウォーズ』(’84〜’85年・TBS系)で「馬上から失礼します」と馬に乗って登場するシーンも伝説的だ。
「実話に基づいた作品なのに、私の役だけが架空の人物なんで、脚本家さんが私で遊んでいました」
撮影に追われた日々、唯一の息抜きとなり、ストレスを発散させてくれたのが、ハリウッド映画だったという。
「『セント・エルモス・ファイアー』(’86年)みたいな青春群像劇も好き。『アウトサイダー』(’83年)のマット・ディロンもかっこよかったなあ。『リーサル・ウェポン(’87年)は難しいことを考えず、単純に楽しめました。映画館には1人でふらっと見に行くことが多くて、1日休みだと2〜3本、ハシゴしていましたね』
「女性自身」2021年4月27日号 掲載