中村あゆみ「人と話すのも避けてた」コンプレックスだったハスキーボイス
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■上京したものの仕送りが途絶え勤労学生に…

 

16歳で東京に出て、六本木にあった平尾邸で住込み生活を始めたが、やはり覚悟が足りなかった。

 

「人が多く出入りするし、いつも誰かがいる環境になじめなくて。上京して2〜3カ月後には、段ボール箱を1つ持ち、飛び出してしまいました」

 

シブがき隊や少年隊のメンバーらと同じ定時制高校に通い、その近くのアパートで一人暮らしを始めたという。

 

「6畳一間に1畳ほどの台所で、家賃は3万8,000円くらい。でも、私には初めて“居場所”と思えて、まさにパラダイス。サーファーの彼氏もできました」

 

そのころ、義父の勤め先が倒産し、仕送りも途絶え、日中は赤坂の貴金属店で働き始めた。

 

「母の高級クラブの、東京のお客さんの奥さまを紹介してもらったりして、営業成績はすごくよかったんです。だから、慰安旅行のときに年齢詐称がバレてしまっても、社長は見逃してくれました」

 

貯金が増え、定時制高校には毛皮とハイヒール姿で登校し、放課後は毎日、六本木に繰り出すように。ちょうどバブル景気の頂点へと向かう右肩上がりの時代で、六本木は別世界だったという。

 

「六本木交差点の近くに、焼き肉店、クラブ、スナック、サパークラブのようなお店が入ったビルがあって、いつも出入りしていました。たまに瀬里奈やキャンティといった高級レストランに連れていってもらうこともあって、食後は必ずディスコに。昭和の男性は“カッコつけマン”が多くて、女のコをお姫さまのように扱ってくれました。だから、遊びに行っても、お金を使うことはないし、帰るときは誰かしらタクシー代を渡してくれるんです」

 

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