■歌の原点は恩返し。開会式後、大量の「感動をありがとう」の言葉が何よりうれしかった
ひらりさんがアポロシアターで喝采を浴びた直後。13年9月の総会で、IOCは20年のオリンピック、そしてパラリンピックの東京開催を決定。
「ちょうどテレビでそのニュースを見てたんです。それで、またしても勝手に決めて横にいたひらりに言ったんです。『東京でオリパラだって。そこで歌うよ!』って」
述懐する母の言葉に、ひらりさんも何度もうなずいてみせた。
「以来、母はことあるごとにあちこちで公言するように。私ももちろん歌いたかったから、母と一致団結して言ってました。以前、小池都知事を表敬訪問する機会があって。その自己紹介でも『開会式で国歌斉唱するのが夢です』って」
16年、新潟市内の盲学校の中学部を卒業したひらりさんは、点字楽譜などが学べる高度な学習環境を求め、国立筑波大学附属視覚特別支援学校を受験し、見事合格。
「高等部の音楽科は毎年1〜2人しか入れないところで。ひらりの代も、この人1人だけなんです」
東京都文京区にある同校に通うため、母娘は上京。新潟から東京に拠点を移し、2人暮らしを続けた。同校卒業後、ひらりさんは武蔵野音楽大学に進学。
「去年の3月だから、ちょうど大学に入る少し前ですね。ひらりはパラリンピック開会式のキャストのオーディションを受けたんです」
しかし、新型コロナウイルスの世界的流行が深刻さを増し、ひらりさんの大学の入学式も中止に。
「その影響なのか、その後、組織委員会からは一切、連絡が来なくなって。’21年に延期が決まった後も『依然、開催予定です』っていう連絡が何度かあっただけで。オーディションの合否もわからないまま年が明けて……」
不安を募らせていた母娘のもとに、合格の通知があったのは今年4月のこと。絵美さんが続けた。
「でも、いったい何のキャストに受かったのかがわからなくて。歌えるのかな、歌えるとしたら、何を歌うのかな。曲目のお知らせがないってことは国歌かなって……」
そして迎えた今年6月。2人は自宅から組織委のオンライン・ミーティングに参加。絵美さんがパソコン画面に向かって尋ねた。
「ひらりが選ばれたというのはお聞きしましたけどいったい何に?」
すると、モニターの中で開会式の音楽担当ディレクターが満面の笑みを浮かべるのが見えた。
「オーディションでひらりちゃんの歌、聴かせてもらいまして。満場一致で決まりましたよ、国歌です、国歌独唱です」
その言葉に、床に座っていた母娘は、体が浮き上がるほど喜びを爆発させたという。
「2人してね、『やったー、やったー!!』って、跳び上がりました」
しかし、コロナ禍でパラリンピック東京大会は無観客での開催に。それは、開会式も例外ではなく、貴賓席など一部を除き、観客の姿はそこになかった。それでも、中継や配信を通じ日本の隅々に、世界に、彼女の歌声は届いていた。
「歌っている間もずっと緊張していて、終わった瞬間もホッとする気持ちが強くて。あまり実感もなかったんです。でも、控室に戻ったら、ものすごい大勢の人からお祝いのメッセージが鳴りやまないぐらい来て。そこからジワジワと『私、やったんだなぁ〜』って感動が込み上げてきました」
メッセージの多くにつづられていたのは「ありがとう」という言葉だった。
取材中、笑みの絶えなかった絵美さんが、珍しく声を詰まらせながら、こう続けた。
「……もうね、『感動をありがとう』とか『ひらりちゃん、頑張ってくれてありがとう』とか……、本当に『ありがとう』が、いっぱい届いたんです。私たちの原点は恩返しだから。ひらりの歌で『ありがとう』と言ってもらいたくて始めたことだから。だから、ここまで2人で続けてきて……、本当よかったって。そう思いました」