松原智恵子語る50年の結婚生活 母の猛反対退けてまで夫に週刊誌記者を選んだ理由
画像を見る 73年2月に行われた披露宴での松原さんと夫の黒木さん

 

■周囲が猛反対した週刊誌記者との交際と結婚

 

「純一郎さんと初めて会ったのは取材現場。『週刊現代』の『この人に会いたい』というインタビュー企画でした。

 

私のことをすごく綿密に下調べしてから取材に来ているのだな、と思いました。私が22歳、純一郎さんが26歳。4歳しか年齢はかわりませんが、彼はとても落ち着いた雰囲気で、いろいろなことをよく知っていました。私の周りにはいないタイプの男性だったのです」

 

松原さんは夫のことを“純一郎さん”と呼ぶ。これは交際を始めたころから変わらないという。

 

初対面の取材は’67年12月ごろ。当時、吉永小百合、和泉雅子とともに「日活三人娘」と呼ばれていた松原さん。この年のブロマイド売上げ数は女優部門で1位。

 

いっぽうの黒木さんは7年間在籍していた早稲田大学を中退し、編集プロダクション「早稲田編集企画室」(※現在は早稲田企画)を立ち上げたばかり。

 

松原さんにとって黒木さんは印象に残る男性だったが、それは黒木さんにとっても同じだった。黒木さんは初対面の日のことを懐かしそうに話していた。

 

「取材が終わった後、僕は事務所に戻りましたが、彼女もどこかに用事があったそうで、それぞれの車で走っていたのです。

 

こちらがちょっと前に出ると彼女は抜き返してくる。けっこう気が強いんですよ。僕も運転には自信があったから、抜きつ抜かれつで、だんだんレースみたいになって。面白い女性だな、と思いましたよ」

 

当時、黒木さんは記者活動のほかにも、着物メーカーなどの宣伝にも携わっており、そのポスターに松原さんが起用されるなど、仕事をいっしょにする機会もあった。

 

’69年の出来事について、松原さんはインタビューでこう語っている。

 

《あるコマーシャルの仕事で水着のままシャワーを浴びる場面がありました。そのときは真冬で寒かった。水を浴びながらチラッと彼のほうを見たら、そこに彼の心配そうな顔がありました》(『週刊女性』’72年4月1日号)

 

それ以来、仕事以外でも、グループでプールや海などに行くようになったという2人。’70年夏、神奈川県・真鶴の海での出来事が、松原さんにとって黒木さんとの未来を考えるきっかけになったという。

 

「純一郎さんのグループの1人が海で溺れてしまったんです。波も高くて岩にぶつけられてしまう危険もありました。誰も動けなかったのに、純一郎さんはわが身をかえりみず、海に飛び込んで、その人を助けてくれました」

 

だが人気女優と若き週刊誌記者が結ばれるまでの道のりは険しかった。黒木さんは、松原さんを心配する俳優仲間から、“自分の身のほどを知って、身を引くべき”という電話を受けたこともあるという。

 

周囲だけではなく、松原さんの母・君子さんも猛反対。実家は名古屋市でアパートや旅館、銭湯なども経営しており、君子さんは『女性自身』の取材に対しても、「智恵子は芸能人とは結婚させない。きちんとした実業家を見つけて交際してほしい」と、ハッキリ語っていたほど。

 

収入の安定しない週刊誌記者などは論外だった。

 

「純一郎さんとお付き合いするようになってから、母がお見合い話もたくさん持ってくるようになりましたが写真も見ませんでした。

 

正直、収入のこととか何も考えていなかったですね。結婚は、お金がどうとか、地位がどうとかではなく、“誰とするか”ではないでしょうか。純一郎さんも何度も私の実家に足を運んで、家族の説得にあたってくれました」(松原さん)

 

初対面の取材で松原さんは「27歳までに結婚したい」と語っていた。黒木さんはその願いをかなえてあげたかったのだろうか? 2人が京都六角堂で式を挙げたのは’72年9月23日。黒木さんは31歳、松原さんは27歳になっていた。

 

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