南野陽子「施設でもガラス越しだった」初めて語った85歳父のコロナ禍介護と看取り
画像を見る 手塩にかけてくれた父にも、反抗期に八つ当たりすることもあったという

 

「みなさんの前に出たこともないのに、父を『ステージパパ』と書き、酷い記事ばかり目立った。報道への耐性がない父はすっかりメンタルが傷ついて、倒れてしまいましたが、それでも私を守ろうとしてくれた。申し訳ない思いでした」

 

そんなことを思い返すたび、父に向き合う気持ちを新たにする南野だが、’20年から猛威を振るったコロナ禍が、父娘の心の通じ合いを阻んだ。

 

「2年半、まともに会えない年月が続きました。施設でもガラス越しにしか会えず、顔を見合っていても会話は携帯電話越し。それでも最近は調子がよさそうで、『6月の誕生日にはご飯を食べに行けるといいね』と、そう話していたのに……」

 

そんななか、今年5月のGW明けに事態は急変する。南野に施設から「朝から呼吸が苦しい状態で、病院に向かいます」と電話が。肺にはすでに水がたまっていて、入院した病院では、それを抜く処置がなされた。「父は一進一退で頑張っていました」と南野が、最後の日々の様子を明かす。

 

「病院からの電話連絡で、父の状態を確かめる日々でした。『今日はお話しができましたよ』とか『今日は眠っていて……』という報に一喜一憂して」

 

最後は朝4時ごろの電話を受け病院に駆けつけたが、到着と同時に臨終の確認となった。

 

「やっと快方に向かうと思っていた矢先でした。いろいろな思いがありましたが、『いまのうちに父の身体に触れておこう』と思い、抱きしめました。幼いころ以来のことでした」

 

それから49日も経っていない。自宅のリビングのサイドボード上には、11年前に亡くなった母の遺影と並んで父の遺影が立てかけられ、お骨も置かれている。

 

「毎日、『おはよう』『ただいま』と日に2、3度は、手を合わせています」

 

’11年に母が急逝した際は、取り乱しては泣き、「何年も抜け出せなかった」南野だが、今回は思いのほか、落ち着いていると言う。

 

「55歳にもなれば、慣れるというか、生き死にへの思いも変わってきます。コロナ禍以降、父と会ってもガラス越しで、すぐ帰らなければならず、施設でひとりでかわいそうでした。

 

いまは天国で、母と一緒にいるかと思うと、不謹慎に思われるかもしれませんが、父にとっては、よかったのではないかとさえ思うんです」

 

その父が好んだクラシックの名曲がフルオーケストラで演奏されるのが、8月に控えている南野のコンサート。南野が込める思いにも、格別なものがあるようだ。

 

「’88年のシングル『吐息でネット』など、若いころとは同じようにはいかないかもしれないけれど、楽しんでもらえるなら歌いたいと、いまは思う。うまくいかないことも、失敗もデコボコもあるかもしれないけど、自分と向き合う姿をみせたい。お手本にならないかもしれませんが、南野陽子という“ある見本”は見せられるのかな」

 

両親を看取ったいま、すこし達観した南野もいる。

 

「人はみな、『生きてこそ』です。死んでしまえば、人々にだんだん思い出されなくなり、残らないと思う。だから私はできることを精一杯やります。’80年代の曲も、いまの私が歌うから、いまのお客さんが聴いてくれる。懐かしんでくれる昔からのファンの方もいれば、『これからどうして生きて行こうか!』って考えてくれる方もいるかもしれませんから」

 

(取材・文:鈴木利宗)

出典元:

WEB女性自身

【関連画像】

関連カテゴリー: